2013年03月19日

伊集院静の文章U

伊集院静の『大人の流儀3 わかれる力』を一気に読み終えた。春風のような清々しさとほろ苦い哀愁が心に残った。

以前にも書いたが,彼の文章が私は好きだ。特に彼の書くエッセイには,常に気づかされ,教えられ,確かめさせられ,そして納得する。洒脱軽妙な文章である。

実体験を通した経験の一つ一つに,その時に感じた思いと後に振り返った時に気づいた思いが重なり,含蓄のある言葉(文章)となって表現される。味わいが後を引く文章である。

何よりも,彼の文章には悪意がない。底意地の悪さがない。人間に対する信頼と尊敬があるからだろう。「叱る」ことはあっても,「貶める」ことはない。

それに比べ,品性のない文章は,そのほとんどが自己正当化・自画自賛に終始しているか,他者に対する非難と攻撃性に満ちたものであるかのどちらかである。さらには,自己正当化のために他者を攻撃したり,他者を扱き下ろすことで自賛する。これなどは最低と思う。


的外れな批判を「したり顔」で書く世間知らずもいる。

ハンセン病国賠訴訟以後,あるいはらい予防法廃止以後,ハンセン病問題を語る学者や教員,運動家に対して「…彼らの隔離の誤りを語る者たちの大半は,らい予防法が存在したときにもすでに人権研究者,人権運動家,教員,有識者,マスコミ人であったはずである。らい予防法が悪法だというのなら,なぜらい予防法が存在したときに,その悪を語らなかったのか」というバカバカしい批判を平気でする大学教授がいる。そして,この一文を,我が意を得たりとばかりに図に乗って,学者や教員を批判して自画自賛する人間もいる。

では聞くが,その時のあなたは何をしていたのか。その当時,私はあなたの名前など聞いたこともなかったが…。自分を棚に上げて何を況んや,である。

一体,何人の人間が,あの当時,ハンセン病問題に関わっていただろう。「ハンセン病」という言葉さえ知らず,「癩病」に対する恐怖心と偏見しか聞かされていないのがほとんどの人間ではなかっただろうか。

「人権研究者,人権運動家,教員,有識者,マスコミ人」を批判しながら,なぜその中に「キリスト教者(信徒,牧師)」など宗教関係者は含まれないのか。
知っていながら,「慰め」「慰安」の訪問のみで,らい予防法や隔離政策に反対も抗議行動も起こさなかったのは誰であったのか。(中には,犀川一夫氏のようなキリスト者もいるが)

私が言いたいのは,「知らなかった時のこと」について後から批判することは容易いし,そんなことを穿り返して批判することに何の意味があるのか,ある。

作家の高橋和巳に「知ったことに対する無関心は,悪ですらなく,人間の物化である」という言葉がある。私は,遅かろうが早かろうが,知った時に「無関心」ではなく,自分にできることをすればいい,と思っている。

ただ人を責めるだけの文章など,品性を疑う。

歴史の過ちを正直に認め,その歴史から何を学ぶかであろう。そして,他者を責める前に,まず自らを問うべきであろう。自らの「今」を問わず,他者の過去を責める愚かさこそ,私は糾弾したい。

posted by 藤田孝志 at 01:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月07日

「悪口」と「批判」

前回に続き,「批判」について考えてみたい。

世の中には独特の考え方をする人がいる。そのような人は,往々にして通常とは異なるその人独自の「表現」や「言葉」を使う。その人独自の解釈による「表現」「言葉」であって,通常の解釈や意味とは異なる。誰にも迷惑をかけない「独り言」程度の「言葉遊び」ならば,それもよかろうが,自己流の解釈と「表現」「言葉」によって他者に不快感をあたえている場合,それは誰にとっても迷惑でしかない。

池田晶子さんの『考える日々』に,次の一文がある。

…「批評」と「悪口」の違いを,わかっていない。ていよくは「批判」と言われたりもするが,もしもそれが正当な批判であるなら,批判の基準は客観性にあるはずである。
ところで,客観性とは,主観性ではないから客観性というのであって,いつどこで誰が考えてもそのようであるというその基準は,したがって,批判しているその人には,その意味では無関係である。また,批判されるその人にも,同じ意味で無関係である。そこで正当に批判されるべきなのは,つねに,「考え」,誰のものでもなく,したがって誰のものでもあるその「考え」だけのはずである。なぜ,誰であるかが問題か。
誰であるか,が問題である人が多いように思う。「考え」と「人」とを,うまく分けられないのだろう。分けられないから,その人の「考え」を批判しているうちに,「その人」が気に入らなくなってくる。気に入らないなら,ほっときやいいのに,ほっておけずに悪く言う。言論の人々,これを「批判」というのらしい。悪口とは違うと思うのらしい。
わざわざ自分の人生の時間を割いて,他人の考えを批判するからには,それが世のため人のためでなければウソであろう。その人を叩きたいがために叩いているような意見を,世の人はまず聞いていない。みんなそんなに暇ではないのである。
ところが,ここが面白いのだが,言論の人々,自分たちの論戦の雌雄を決することが,世界と歴史を決することだと,深く思い込んでいる。だんだんと思い込むようになるのだろう。すでに感情の泥仕合と化しているもの,アイツを叩くことが世界と歴史を決することでなければ,公である手前,引っ込みがつかないとやはり感じるのだろう。
しかし,そんなことは,ないのである。アイツは世界ではないのである。井のなかの言論戦とは無関係に,世界と歴史は本日も滞りなく,その歩みを進めている。

(言論の中の「悪口」と「批判」)

この一文を読みながら,思い出されることがある。なるほど,そういうわけだったのか,と妙に納得してしまった。


ブログが普及した結果,誰もが一端の評論家のように世情や物事に対して意見を述べたり,批評を書いたりする。これ自体に何の問題もないが,中に「論文」「批判検証」と諄いほどに言い訳を書きながら,実際は他者に対する「悪口」「揶揄」「愚弄」でしかないブログもある。感情にまかせて言いたい放題,他者の人権など無視である。それに引き替え,自分の人権だけは主張する。何とも自分勝手な言い分と思う。

私に関しても好き放題に書いている人がいるが,何一つとして私が納得する内容はない。論争をする気にもならないほどの的外れな内容である。論理そのものが,よく言えば推量だが,実際は臆測でしかない。あまりも稚拙な邪推である。
一度も会ったことも話したこともない人間に関して,何年間も悪口雑言を書き続ける無神経さと執念深さに辟易してきた。その独善的な解釈(曲解)は,結論ありきが前提で,その結論につながるように何事も解釈していく手法は論理ではない。書かれている本人が思ってもないことや考えてもないことを断言され,事実でないことを事実であると断定され,唖然とした。
これって「批判」なのか?どう考えても「悪口」(しかも独断と偏見から)であって,根拠も曲解でしかない。

人間,相性もある。意見や考えの相違もある。好き嫌いもある。気に入らないことも多々あるだろうが,池田さんが言うように,「考え」と「人」を分けられないのだろう。

どれほど高尚な論述をしていようとも,正当な提唱であろうとも,その文章表現に他者に対する尊重もなく,他者の「人」(人格・人間性)に対して悪意ある揶揄・愚弄を書くならば,それは「批判」ではなく「悪口」でしかない。


ここ1ヶ月ほど,ハンセン病一筋に医療に携わってこられた犀川一夫氏の書かれた自伝的な回想録『門は開かれて』『ハンセン病医療ひとすじ』を耽読していた。

彼は光田健輔の愛弟子であるが,隔離政策に反対し,光田退職後に愛生園を去り,海外や沖縄での外来治療方式を推進した。

彼の著書を読みながら,不快感がまったくなかった。むしろ清々しさ,人と人との交流の温かさを強く感じる。人に対する「視線」がちがうのだろう。
彼の著書には「批判」はあっても「悪口」はない。

posted by 藤田孝志 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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