2010年11月20日

Selbstdenken

先日,本屋で偶然に手に取り,懐かしさを覚えて買ったのが,熊野純彦編著『日本哲学小史』(中公新書)である。

本書は二部構成となっていて,第一部は「近代日本哲学の展望−『京都学派』を中心にして−」と題した熊野氏による明治以後の日本哲学史の概観である。
第二部は,その歴史を形成した哲学者の代表的論文20篇を選び,気鋭の研究者がそれに関して論じている。

私が哲学的な書物に最初に触れたのは,確か『日本の思想家』(朝日新聞社)であったと記憶している。西田幾多郎の名は知っていたが,井上哲次郎の名は初めて知った。彼ら日本を代表する思想家について,その人生と主要著書の概要,思想の概説を簡潔にまとめた3分冊であった。彼ら一人ひとりが独自の思索に辿り着くまでの人生がおもしろく,同様の本,たとえば清水書院の「人と思想シリーズ」などは安価なので興味のある思想家への入門書として最適であり,大学受験に大いに役立った。

私は,歴史に最も興味があるからだと思うが,哲学そのものより哲学史に心惹かれ,思想よりも思想史や社会思想史に興味をもってきた。初めて買った哲学関係の洋書も,Bertrand Russell の『A History of Western Philosophy』であった。高校時代の恩師に紹介された日本語訳の本がおもしろくて原書を読みたくなったからだ。


ここ数日,風邪を引いてしまい,最悪の体調で,先日は終日ベッドの中で過ごし,本書を読了することができた。

なぜ,哲学や哲学史の本はストレスなく読むことができるのだろう。本書など,興味と面白さで読み進むことができ,時間すら忘れてしまっていた。興味や関心のままに,内容を受け入れるからだろうか。

本書の中にもあった言葉に,“Selbstdenken”(自分で考えること)がある。西田幾多郎ら京都学派を表現した言葉として知られている。
この言葉をネットで検索すると,ショウペンハウエルの著書に関連した文章がヒットする。その中の一つに『愛牛庵』
「漢詩文」があった。含蓄あるある言葉を紹介されていたので,勝手ながら引用させていただいた。

Fremde, gelesene Gedanken sind die Überbleibsel eines fremden Mahles, die abgelegten Kleider eines fremden Gastes.
(Schopenhauer (Die Welt als Wille und Vorstellung) Parerga und Paralipomena, ch.22, §259 "Selbstdenken")

書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、知らない客が脱ぎ棄てた着物に過ぎぬ
(ショウペンハウエル『意思と表象としての世界』「付録と補遺」の22章§259「思索」)

「思索」とは「自分で考えること」である。この自明のことが実は非常にむずかしい。ショウペンハウエルの言うように,他人の考えを模倣してしまったり二番煎じになってしまったり,単なる「解釈」になってしまったりする。独創的な思考は簡単には為し得ない。

しかし,先人達の思索の足跡を丹念に辿りながら,忠実な解釈とともに思索を繰り返すことで独自の思想を生み出すことはできる。
「独自の解釈」「独自の思索」と言いながら,その実は,自分勝手な解釈であったり,独断と偏見であったりするよりは遙かにましである。何より他者の主張や意見を正当に解釈すらできず,見当外れの自己流解釈に基づいた的外れな批判に終始する「思索」など本末転倒である。

ショウペンハウエルは,大学時代,文庫本の『読書について』『自殺について』などを読んで,そのアフォリズム的文章に興味を惹かれた。彼のpessimisticな論考と,その格言的な言葉の数々は,若かった私の思考に刺激を与えるに十分であった。当時の断片的ノートには彼の言葉が書き残されている。

今思うのは,ショウペンハウエルもまた哲学者の一人であるということだ。一人二人の学者の言説によって他者を批判すること,非難の根拠に利用することの愚かさを思う。


恩師の友人は,牧師の本業のみに真摯に向き合い,重い心臓病を患いながら,それこそ生命をかけての伝道と研究の日々であった。大学時代に一度しか訪ねたことはないが,万巻の書物に囲まれ,ギリシャ語・ラテン語,さらにはヘブライ語を駆使して『聖書』に取り組んでいた。矢内原忠雄の『聖書講義』など戴いた数冊の本は今も私の書斎にあって,時折開いては,その時に教えられたことを思い出す。
牧師館のわずかな書斎の四方に置かれた書棚はキリスト教の専門書でいっぱいで,廊下や床にまで積み上げられた書物に圧倒され,若い私の生意気な質問に対して,それらの中から関係する本を取り出してわかりやすく説明してくれた。牧師とはこれほどまでに真摯にキリスト教について研究するのかと思ったものだ。

大学時代の一時期,友人に誘われて教会に通ったことがある。横浜の上星川教会であるが,日曜日毎の礼拝もまた新鮮な学びの場であった。『聖書』をこの時ほど真剣に読み耽ったことはない。友人たちと一夏かけて『旧約聖書』の輪読会をしたのも懐かしい思い出だ。
教員となってから長島愛生園の対岸にあった虫明伝道所にも通ったことがある。小さな伝道所で,時には牧師夫妻と私だけの礼拝もあり,夜遅くまでいろいろと教えていただいたこともある。
しかし,なぜか結局は入信しなかった。仏教,特に禅宗にも興味をもって,禅寺で只管打坐の修行もしたが,キリスト教ほど心が動かなかった。宗教的といえば,宗教的な人間かもしれないし,逆に最も宗教から遠い存在なのかもしれない。

高校時代,ニヒリズムに傾倒したことが大きく影響しているのかもしれない。そして今は,入信しなくてよかったとさえ思っている。これ以上,キリスト教の牧師に失望したくないからだ。かつて出会った素晴らしい牧師たちから受けた多くの示唆や,彼らが信仰によって培ってきた人間性を信頼したいからだ。

posted by 藤田孝志 at 03:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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