2011年10月09日

秋の読書

私は季節の中で「秋」が一番好きだ。

書斎の窓を開けて,秋風を感じながら読書や物思いに時間を忘れる,そんなひとときに最適な季節は秋だと思う。
窓の外に広がる田んぼの色が日ごとに変わっていく。緑から黄緑へ,淡い緑に黄色が混じり始め,今は一面が黄金色に波打っている。
山も緑から黄・赤・茶など様々な色が混じり合った紅葉の季節となっている。

秋には「静寂」がよく似合う。自然の移り変わりを眺めながら,その対岸,まるで時間の流れの外にいるかのような錯覚を覚える。


先日,深夜TVで伊集院静をゲストに彼の著書について鼎談する番組があった。その時に,話題に取り上げられた本が『大人の流儀』である。話を聞きながら読んでみたくなり,早々に入手して今読んでいる。

この類の本は買ってまでは読まない。雑誌に連載されているのを喫茶店か理容店,あるいは立ち読みで済ましている。

季節のせいか,それなりの年齢になったからだろうか,この本に書かれている彼の感覚が理解できるし,共感もする。たわいのない日常の一コマについてのエッセイだが,妙に納得してしまう。

春夏秋冬と題された各章ごとに分類された短いエッセイの,その短文の中に一行あるいは一文,さらには表現に用いられた単語の一つに,はっとさせれたり,言い得て妙と感じたり,立ち止まって考え込んでしまったりさせられる。伊集院氏の文体は,どちらかといえば,現代的な軽妙さ(決して軽い?という意味ではない)で,すっと読み進んでいけるのだが…。

「人が人を信じるということ」という一文は数回は繰り返し読んだ。教師と教え子の交流をテーマに,自分と恩師との思い出を綴っている。描かれている逸話を読みながら私自身の高校時代と重なった。

私にも恩師と呼べるたった一人の教師がいる。伊集院氏の恩師がM野先生であり倫理社会の先生であったように,私の恩師も同じ教科のM口先生である。

…上京し,身体を壊わし,夢が失せ,彷徨する日々の中で自分が最後まで望みを捨てなかったのは,両親とM野先生のお陰である。

私も,曲がりなりにも教師として生きているのは,両親と恩師であるM口先生のお陰と思っている。

この一文の最後に,伊集院氏はこう書いている。

何人もの教え子に人間として何が一番大切かを教えてくれた人が日本中にいるのだろう。

この一文に,彼の優しさがある。恩師を通して彼が得たものは,信じるに値する人間がいることであり,人を信じることのすばらしさであったと思う。だから,彼は優しいのだと思う。

伊集院氏のように,教師に期待してくれる人間がいる一方で,何かにこじつけては教師の責任ばかり追求する人間がいる。
人を扱き下ろすことに終始する文章など読みたくもないが,その理由がわかった気がする。それは,他者を信じられない人間がルサンチマンの発散として書く文章だからだろう。

はたして私は恩師のような教師に少しでもなれただろうか。


この本もテレビ番組「ワールドビジネスサテライト」の人気コーナーの一つがそのまま本になったと聞いたので,興味を引かれて購入した。
この『スミスの本棚』には,番組に出演され「自分にとっての一冊」を紹介された42名の方のインタビューが収録されている。

ネットで購入したので,届くまで42名が誰であるか知らなかった。半数以上は初めて知る方たちであったが,読むうちに親近感を持ったり共感を覚えたり,興味がかき立てられたりするようになった。

こうした本を読むと「人に人生あり」を実感する。その中で誰しもが「本」とも出会っている。人生を決定するような出会いに「本」が含まれていることをうれしく思う。


久しぶりに古本屋に行き,2時間ほど店内を散策して数冊の本を購入した。

以前より探していた本も見つかり,その中の1冊は存在すら知らなかった。著者の荒木祐臣氏は郷土史家で,岡山藩に関する本を数冊書いている。私は以前より彼の本を収集しており,そのほとんどを入手していると思っていたのだが,今回購入した『備前藩宇喜多・小早川・池田史談』は知らなかった。荒木氏の著書が他にもあれば読みたいと思っていたので,思いもかけず出会ったことがとてもうれしかった。

今回のように,偶然に「お宝」と出会うことができるから,古書店巡りはやめられないのだ。私のように,フィールドとしている世界がマイナーな場合,出版部数も少ないため,入手が困難なケースが多い。実は,未だに探している本もある。

本書は『池田家履歴記』『古備温故秘録』『市政提要』など池田家関係の古典的な史料や郷土誌から史実を抜粋して書かれたものだが,それら史料そのものから読み解くよりも簡潔であり,「史秘」と称するものを知る上で便利である。
本書を元にさらに調べたければ原典史料を探せばよいのであって,解釈や考察にヒントを与えてくれる。

岡山藩に関する谷口澄夫先生などの先駆的研究もあるが,私の研究分野に接触する研究はほとんどない。また,岡山藩の細部に関する研究には未解明な部分も多くあり,それらの研究に十分な進展があるようにも思えない。(もちろん,郷土史家や地元研究者が地道な研究を続けていることも,着実に成果を上げていることも知ってはいるが…)
たとえば,私の専門とする部落史に関しても「渋染一揆」ばかりがクローズアップされるが,それ以前の穢多身分・非人身分の存在形態や身分的位置づけ,村落における百姓との関わりなど未解明な部分も多い。

何よりも単一政権として江戸時代を維持してきた池田家に関する膨大な史料群を解明すべきであろう。

本書の中で,特に興味を引かれたのが「備前の説教者」に関する史料紹介である。備前で蝉丸宮より免許を貰った説教者の名が列挙されている。
『撮要録』に「木偶人芸」の項目があるが,岡山にも多くの説教師がいたことは興味深い。


『オン!埴谷雄高との形而上対話』を知ったのは,著者である池田晶子氏が亡くなった後のことだった。いつか読みたいと思っていたが,なかなかお目にかかることがなく今日に至ってしまった。

埴谷雄高との付き合いは相当に長い。高校時代,高橋和巳を経由して埴谷雄高と出会って以来だ。最初に手にしたのは「評論」であったが,独特の文体と表現,使用語句にも関わらず,私にはわかりやすかった。
だが,彼を知るほどに,その難解さは次第に加速度を増して深くなっていった。そして無謀にも『死霊』に挑戦し,あえなく撃沈した。その後も幾度か挑戦し,大学時代には数度読み通すことができ,ある程度の概略も理解できるようになったが,彼の「思索」を追究しようとすれば,確実に挫折した。

それゆえに,未だに埴谷雄高は私にとっての未踏峰なのだ。

私の書棚には埴谷雄高の全集と何冊かの評論集,そして「埴谷雄高論」を含めた評論集が並んでいる。しかし,ここ十数年は手にも取っていない。高橋和巳の著書や関連書籍と同じく封印されたままである。

池田晶子という哲学者がどのように解いたか,まずは読んでみたくなった。


秋の読書は,今年も支離滅裂なものとなってしまいそうだ。でも,それがまた楽しい。

posted by 藤田孝志 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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