2011年12月03日

被害妄想

解放令反対一揆の要因に農民の「被害者意識」がある。これに関しては,別のブログで詳しく考察したいと思い,準備をしている。


被害者意識と被害妄想のちがいは,前提となる「事実」が存在するかどうかである。

その「事実」が何らかの「被害」を生じさせていると意識する場合,客観的には「被害」を生じさせていなくても,当事者が「被害」と受けとめるならば,被害者意識といってもよいだろう。
しかし,その場合でも「事実」を当事者がどのように解釈して受けとめるかによって大きく異なる。まして,「事実」そのものがなく,当事者の自分勝手な思い込みや虚偽・捏造の類であれば,それは「被害妄想」でしかない。

ありもしないことを,されてもいないことを,あったかのように,されたかのように思い込んでしまう「被害妄想」ほど,人騒がせで,迷惑なことはない。

心的外傷後ストレス障害やうつ病、統合失調症などの精神病患者たちに多く見られる症状の一つで、他人への根強い猜疑心等が生まれる。覚醒剤など薬物の使用によって現れることもある。

重大な精神疾患に限らず、ごく日常生活でありがちな軽度の勘違いや猜疑心なども「被害妄想」としてみなすことがあり、精神的に比較的不安定な思春期では珍しくないともいえる。それらは精神医療の対象とはならず、周囲の人間関係や本人の考え方の問題とされる。また、個人間における感情や心理の行き違いなど、本当に被害を受けているのか単なる被害妄想なのか判別することが難しいケースも日常生活上では少なからず存在する。

また,実際に何かの被害を受けた人間が,決定的な証拠が無いにも関わらず「あいつの仕業だ」と思い込み,見当違いの怨恨が生まれることもある。そして,今度は何の実害も被っていないのに,「あいつが裏で自分を攻撃し(ようと)ている」等といった被害妄想を膨らませていくケースもある。現実には不可能であるにも拘らず,「思考盗聴されている」「電磁波で攻撃されている」,どのように自分の存在が重要かも説明出来ず「集団ストーカーの被害に遭っている」と主張し出す例もある。ただし,これらのケースは,事実被害にあっていないことが証明できないうちは被害妄想と決め付けることもできないために,被害妄想という言葉そのものが中傷行為ととられることもある。

「被害妄想」『Wikipedia』より


周囲には「被害妄想」としか思えないことであっても,本人は本気で「被害を受けた」「攻撃されている」と思い込んでいる。「被害」の事実を証明する客観的な「証拠」も,具体的な「事象」も存在しないにもかかわらず,「被害」を主張し,さらにはあれもこれもとこじつけて「妄想」を増幅させていく。

支離滅裂であろうと論理が破綻していようと,その判断もできず,ひたすら「被害を受けた」ことのみを書き続ける。具体的事象は一切書かず,抽象的で同じフレーズのみを多用する。事実でないのだから具体的「事実」や「証拠」など書けないのは当然であるが,「事実」と「妄想」の区別がつかなくなっている人間にはわからないのだろう。


「被害」を狡猾に利用する人間もいる。

「オオカミ少年」の寓話のように,人々を惑わす目的で「虚偽」を「事実」であるかのように装う場合もある。つまり,「被害」を装うことで,特定の相手を攻撃する「口実」(大義名分)を手に入れようとする。自分の言動を正当化する手段として「被害」を悪用するのだ。

相手からの「攻撃」(具体的な内容やその証拠)については抽象的な表現に終始し,自分が受けた「被害」(なぜ「攻撃」されたか,どのような被害を受けたか…ほとんど独断的な思い込み・妄想であるが)のみを過剰に書き続ける。

【嘘も言い続ければ,真実になる】と思っているのか,風説に惑わされやすい人間心理を小賢しく利用しようとしている。老獪な手法である。


確かにさまざま考えの人間,いろんなタイプの人間がいる。
人を批判することで自分の意見を主張していくのも手法だろう。嫌味と皮肉で人を扱き下ろし,口汚く罵り,小馬鹿にする。人を「下げる」ことで,相対的に自分を「持ち上げる」ことを意図的に行う。常に「自分が一番であること,自分が正しいこと」を主張するために,相対する他者を見つけては批判する。

そんなタイプの人間には誰も寄りつかないだろうし,相手にもしないだろう。なぜなら建設的な「論議」など到底望むこともできないからだ。弁証法的な相互批判や議論であれば,相互にメリットもあるだろうし,たとえ過激な批判の応酬であっても,人間的な交流の先に尊敬も生まれるだろう。

しかし,単に自己正当化のために他者を踏み台にしたり,捨て石にしたりするような対応には,得るべきものはなく,嫌悪感と不快感しか残らない。
そんな人間に対しては遠ざかるか無視するだけだ。極端に言えば,排除・疎外することで,無意味な関わりと無駄な時間を持たなくてもよいようにするだろう。

少なくとも,私はそうする。たとえ,いかなる非難を受けようとも,関わりたいとは思わない。


バートランド・ラッセルは『幸福論』(岩波文庫)の中で「被害妄想」について,次のように書いている。

極端な形では、被害妄想は狂気の一種とされている。

それは精神病医の扱うべき問題だ。私が考察したいのは、より穏やかな形である。というのも、穏やかな形の被害妄想は、不幸の原因になることが多いからである。

被害妄想の傾向のある人は、哀れな身の上話を相手が信じたとなれば、尾ひれをつけて話すので、ついには眉つばものになる。反対に、自分の話が信じてもらえないとなれば、これまた人類が特に彼に対して不人情である一例になるだけの話だ。

被害妄想に陥る理由は,次のような考えの傾向が強い人間ではないだろうか。

自分は「被害者・犠牲者」であると主張することで,自分が被害を受けるのは自分が悪いのではなく人が悪いからだと責任転嫁あるいは自己正当化するためである。
また,「人に自分の話を聞いてほしい」「自分に関心をもってほしい」「同情してほしい」「人から注目されたい」という自己顕示欲が強いためである。

「被害妄想」は,過度の「narcissism」の裏返しでしかない。

自己を過大評価するあまり,他者が自分が思っている(期待している)ほどには関心を示さない場合,あるいは他者に批判された場合,その他者に対して過剰な反応をする。これが「被害妄想」である。

不確かなことであっても,確信的に思い込み,自分の中で過大視し,妄想を膨らませて現実と想像を混同してしまう。

posted by 藤田孝志 at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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