2011年11月13日

人間関係の煩わしさ

いかなる立場・集団・関係であろうと,人間関係ほど難しいものはない,とあらためて痛感している。

人間関係の基盤は「信頼」であるが,構築・維持するためのツールである「言動」と「その解釈」により強固になるか破綻するか,その微妙な綱渡りを日々繰り返しながら人間は自分が属するいくつかの社会集団の中で人間関係を結んで生きている。

「言葉の行き違い」や「行動の行き違い」による相互の「錯誤」が,今まで積み上げてきた「信用」や「信頼」を瞬時に壊してしまうことがある。

今まで自分が思っていた(思い込んでいた)相手の自分に対する「認識」「評価」「関係性」が,実はまったくの「錯誤」であったことに気づく瞬間がある。
相手は自分のことをこのようにしか思っていなかったのか,と。自らが思っている「自己像」と,相手が思っている「(私に対する)像」とのあまりの相違に愕然とする。同様のことが相手にもあるはずだが,そこに「親密」「信頼」の感情が介在している場合は,その落胆の度合いも多く,あらためて自分にとっての「他者」という存在を考え込んでしまう。

人間関係の脆さは信頼感の温度差である。


人間関係の脆さ,信頼感の温度差を実感したとき,人間は他者との関係に深い失望を抱く。

自分が相手にしてきた「よきこと」が脳裏を駆け巡り,「これほどのことをしてきたのに…」と,相手の冷淡さを思う。だが,「あしきこと」については考えない。自らの言動を顧みない。その結果,最悪の場合(いや,多くの場合)「逆恨み」の感情だけが残る。相手への信頼度と相手にしてきた「よきこと」(勝手に思っているだけだが)の思い込みが大きければ尚更に裏切られた思いから憎しみが激しくなる。

一方で,失望から自信喪失,自己嫌悪へと陥ることもある。過大な自己評価と他者からの評価の格差に起因するのだが,落胆は大きい。
自らの言動が招いた結果であるにもかかわらず,要因と経緯の分析と反省,自己改善へとポジティブに意識を変えればよいのだが,なかなか難しい。

最悪の場合,自己破壊へと向かう。自らの存在意義を失い,生きることにさえ絶望する方向へと思考が加速してしまう。冷静さを失って,客観的な自己分析ができない。

「思い込み」の弊害である。

人は自分が思っているほどには「評価」などしない。自らの「自信」を他者の評価にゆだねるべきではない。

人間関係は,結局は「利害」に左右される。自己保身と相乗的に利害の中で他者との関係を見極めているのだ。いかなる社会集団,例えば職場の対人関係などは最たるものだが,利用価値と自己保身が基準である。このことを秘して人間関係を気づこうとする。
だが,それが何らかのトラブルによって表面化し露呈するときがある。

そのとき気づくのだ。人間関係の脆さと人間は孤独であることに。


人間は理性の動物ではあるが,本質的には感性・感情の動物であると思う。それゆえに人間関係の構築・維持には多分に感情的な動向が影響する。また,人間関係における他者に対する判断も多分に感情に左右される。

極論を言えば,感情的に合うか合わないか,好きか嫌いかが大きなウエイトを占める。利害と感情が人間関係を左右すると言ってもいいかもしれない。

この横軸に加味されるのが縦軸としての力関係である。会社や職場の職階,年齢,社会的地位などの力関係である。

人間関係を円滑にするのがコミュニケーション能力であるが,力関係に際しては処世術ともいわれる独特の関係処理ツールが必要である。

この「処世術」が苦手な人間は現実において多くの場合,損をするといわれる。
損とは何か。相手の感情的な対応による不利益であったり理不尽な扱いであったりである。特に力関係において不利な立場であれば尚更である。

このように考えるとき,人間関係の煩わしさに辟易する。

posted by 藤田孝志 at 02:49| Comment(3) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。 誰か一人でもわかってくださる人がいないかと
検索でここまで来ました。
今失望の中にあり、これからどこへ行けばいいのだろうか
自分の判断に自信を持てずにいます。
これまで自分のやることを懸命にしてきて
人を陥れるようなことをしてこなかったにも関わらず
事実と違う噂が流され
いつの間にか攻撃対象になっていました。
数年間身を置いた場所で、
信頼関係は育たっていなかったわけです。
処世術も私は苦手ですが、
そのスキルがあったとしても、最終的には利害関係が
ものを言うのだと嫌という程思い知らされました。
救いはないのでしょうか。



Posted by eoif79202 at 2016年08月25日 21:05
結論を言えば,人に左右されず,人の評価に一喜一憂せず,絶対の孤独の中にあっても,自らの生涯を責任をもって受容する「覚悟」をもつことしかないと思います。それは「強さ」ではなく「覚悟」です。換言すれば,他者の評価や価値観ではなく,自分の価値観によって生きることです。
あなたの他者への言動は,あなたが思っているのと同じに他者が受けとめているかはわかりません。人の心はわからないものです。だからこそ,人の評価をあてにして生きるべきではないと思うのです。
あなたが他者を信頼することと,他者があなたを信頼することは別のことだと「覚悟」すべきです。
誤解なきように言っておきますが,それは他者を信じるなということではありません。信頼すればよいが,信頼した結果,裏切られたり欺されたりしても,それを引き受けても決して崩れない「覚悟」をもちなさい,ということです。
長く生き,多くのことを見て,あるいは辛酸を味わってきた果てに,私自身が思っていることです。一面識もない人間に,ネット上で事実無根の誹謗中傷を数年間も書かれ続けてきた私が辿り着いた結論です。
正当に評価する人間もいれば,心外な評価しか下さない人間もいます。それらに振り回されても,彼らはそう思っているのですから…。ダンテの『神曲』の一節をマルクスは『資本論』に引用しています。< 汝自身の道を行け,そして人々の語るに任せよ >
Posted by 藤田孝志 at 2016年08月25日 22:56
ありがとうございます。
他者を見ているようで、自分自身の願望を見ていたのかもしれません。
期待することと、叶えられないこと。
藤田様のコメントを読んで「価値観」とは何なのだろうと改めて思いました。
苦しいと思うことや嬉しいと思うこと、あるいは尊いと感じることが
人によって少しづつずれていて
ぶつかったと感じた時に何かを教えてくれているのかもしれません。
真実は自分だけにしかわからない、
このことと藤田様のおっしゃる「覚悟」の意味はきっと近いですね。
自分の道を行きます。
勇気付けられました。ここに来られて良かったです。
Posted by eoif79202 at 2016年08月27日 20:32
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