2010年09月05日

生徒間のトラブルに思う

人間関係の縺れに起因する生徒間のトラブルにおいて,自分に非がないことを証明するために,あえて自分が「されたこと」を強調することで自分を「被害者」「弱者」の立場に置こうとするケースに出会うことがよくある。
「言った」「言わない」から始まり,相手が自分に対してしたこと(言ったこと)の「ひどさ」を列挙しながら,いかに自分が傷ついたかを繰り返し述べることで,自分を「被害者」にし,相手を「加害者」とすることで,自分の非を打ち消して自己正当化をはかろうとする。
時に,明らかに作為的な誇張も感じられる。両者から事情を聞く中で,どっちもどっちだと思える場合がほとんどだが,執拗に自分が受けた「被害」ばかりを強調して,まったく聞く耳を持たず,いつまでも相手の非ばかりを詰り,いっこうに解決をさせない生徒もいる。まるで「被害妄想」に酔っているかのような生徒もいる。このような場合,その生徒の方がいつまでも根に持ち,執念深く相手の生徒に敵愾心や恨みまで抱いて,自分がしてきたことやしていることを正当化して,自分を顧みることもせず,逆に悪質な嫌がらせを繰り返すこともある。
また,周囲に対しても,相手の行為によって自分が受けた被害ばかりを,随分と時間が過ぎているにもかかわらず,いつまでも言いふらすことで同情を引き,相手に対する自分の行為を正当化する方便に使うことも多い。なんとも姑息な手法を使うのかと思うのだが,当の本人は客観的な判断すらできないほどに,被害妄想による自己正当化や,被害者・弱者を聖化する発想に酔いしれている。周囲の同情や共感,相手に対する周囲の非難の視線が心地よいのかもしれない。相手にされなかったり,無視されたりすると,余計に向きになって意固地になり,振り向かせようと躍起になり,泥沼化していく。冷静にみれば,独り相撲でしかなく,相手は「無視」しているだけで,関わりたくないと避けているのだが,そのことを本人はわかっていない。わかっていても,それがまた気にくわないのだろう。なぜ相手にされず無視されているかを顧みることもせず,自己正当化に終始する。そんな相手に対して,生徒がよく使う最近の言葉が「うざい!」である。

生徒間のトラブルを解きほぐしていくと,上記のような構図が見えてくることが多々ある。しかも,両者ともにそのように思っている場合は少なく,片方は早々と切り上げてしまい,何とも思っていなかったり,そのような相手に呆れたりして,いつまでも相手にすることをバカらしく思って距離を置いている場合の方がはるかに多い。たいがいの場合は,事情を明らかにしながら相互について客観的な判断を下しつつも,本人の問題点を指摘していく教育的指導を行うが,思い込みの強く,自己防衛本能の強い生徒の場合,自分の非を認めようとはしない。
逆に攻撃は最大の防御とばかりに,自分を守り自分の行為を正当化するためには,これしかないのですと改めることをなかなかしない。いつしか周囲も客観的な判断からおかしさに気づき,遠ざかっていき,孤立化していくのだが,そうなると更に意固地になって,相手にされないこと・無視されていることに苛立ち,ますます自己正当化のための被害妄想を拡大させていく。そして攻撃性か執拗化されていく。かつて突然,何の予兆もなく殴りかかった生徒がいたが,やられる前にやらないとやられる,と思い込んでしまった結果だった。聞けば,いつも相手のことが気になって仕方なくなり,気がつけば思いだし,思い起こし,相手のことを考えていて,段々に妄執が強くなったとのことだった。


「僕は悪くない」「私は悪くない」「うちの子は悪くない」は,相手に対する憎悪にも似た感情さえも正当化させ,逆に自分の非を矮小化させていく。これも自己防衛本能の一つであり,無意識のうちに身についた習性でもあるから,なかなか本人は認めない。特に,孤立化傾向が強く,周囲との人間関係をうまく構築できないままの生い立ちを経てきた生徒には顕著な特性である。

以前に,「僕は悪口を言われた」と事あるごとに言う生徒がいた。「いつのこと」と聞けば,「あいつは,幼稚園の時に…」と,十数年前のことを繰り返し語っていたのだが,相手は記憶にさえ残っていなかった。本人には許し難いことであったのだろう。気持ちはわかるが,その後の執拗な行為もまた許されることではない。「僕は謝ってもらっていない。僕の中では解決していない」と,繰り返し相手を非難する理由を語る。「謝った」「謝っていない」の水掛け論が延々と続き,結局は平行線のままで終わった。こうなると,本人の考え方・生き方の問題となってくる。両者共に気の毒としか思えないが,解決は難しい。なぜなら,彼は相手との人間関係を修復する意志がなく,相手を貶めて困らせることが目的だからである。
十数年前のことを自己正当化の楯にして,要するに気にくわない相手を攻撃して,嫌がらせをしているにすぎない。なぜなら,関係性がほとんどないにもかかわらず繰り返すのは,相手を下げることによって自分を上げる手段であったり,気にくわない相手に嫌がらせをして溜飲を下げて喜ぶ歪んだ自己満足であったりと,その程度のことでしかない。メリットもデメリットもほとんどないにもかかわらず,執拗に相手に嫌がらせをする,あるいは悪口を言われたと言い続ける理由は,そんなものである。普通は,いつしか溶解していく人間関係の歪みだが,時として極端に固執する生徒の場合,なかなか納得しない。数年にわたってノートに恨み辛み,相手の言動を書き続けていた生徒もいた。


ここ数年,人権教育やキャリア教育の中で,あるいは新しい学習指導要領の中でも強化された教育目標に「コミュニケーション能力の育成」があるが,その必要性は確かに痛感する。会話が不成立であったり,一方的な主張ばかりに終始して相互理解を深める努力を放棄する傾向が強かったり,何よりも互いの人間性を尊重するという価値観が欠如していたりする生徒が増えてきている。逆に,自己の不安感やストレスを他者を攻撃することで解消しようとしたり,被害者・弱者を装うことで周囲の同情と共感によって自己正当化を得ようとしたりする生徒も多くなっている。共に,自尊感情が低く,コンプレックスを心の奥に抱いており,他者からの自分に都合のよい評価・賞賛への要求が強く,自己顕示欲も強い。自分を自分の思うように評価してもらえない場合,自分を省みて改善するよりも,つまり自分の責任ではなく他者の責任として,他者を責めたり攻撃したり,自分を理解できないのは相手が悪いからだと思うことで自己満足感・自己充足感を得ようとする。しかし,それが空しき独りよがりであることを心底では感じているはずなのだが,決して認めようとはしない。

少し誇張気味に書いたが,このような傾向の生徒や保護者が増えてきたのは事実である。対人関係の構築が下手・苦手な生徒に共通する要因でもある。生徒間のトラブルの多くは,どちらが悪いとも言えないことが多い。先か後かの問題で正当化される問題でもない。自分がどこで決着をつけるかでしかない。

いつまでも続く「イタチごっこ」のような自己主張と相手への非難,「勝ち負け」へのこだわり,「被害者になりたがる」(負けたふりをして周囲からの同情を引くと同時に,周囲が相手の方が悪いと思い込ませようとする)姑息な手段を駆使しての自己正当化,これらが日々繰り返されていく。そんな底の浅い姑息さで周囲の歓心を買おうとしても,本性はすぐに見抜かれ,誰も相手にしなくなる。相手にしない理由が学力でも成績でも,運動能力でも,まして容姿でもなく,単に性格の悪さだということに気づくべきなのだが,素直に認めず,あれこれと独りよがりの理屈をつけたがる。しかも「個性ですから」「性格なので」等々の屁理屈としか思えない開き直りで,自らの非を認めない。相手を非難する際は,相手の細かなミスや問題点を取り上げて執拗に,しかも陰湿な手法で攻撃しながらも,自分自身は一向に改めようとしない。集団から無視され疎外されていることも,自分は悪くなく相手が悪いと決めつけて,自分の協調性については問題にしない。


自分の非を認めたがらない症候群とでもいうような現象が確かにある。自分の言動を顧みることはせず,一方的に相手を攻撃する。「好き・きらい」の二分化で感情を表現する生徒も増えてきている。そして何よりも寛容さや中庸という精神のバランスを整えられない生徒も増えてきている。
勉強や学力でしか価値観を構築できない生徒,自己存在と同様に他存在を容認できない生徒も増えてきている。これらも教育課題なのだろうが,屁理屈や悪知恵ばかりが頭を駆け巡り,他者との人間関係を構築することより,孤立化しようと他存在を攻撃し,いたぶり,からかうことを楽しいと思う生徒に,人間らしさを説き続けることは,時に空しささえ覚える。他者を非難することでしか自分を主張できず,自己存在をアピールできない生徒にはいったいどう対処すればいいのかと途方に暮れることもあるが,生徒である限り向き合い続けたいと思う。


部落問題だけでなく人権問題に関わる場合,その目的をはき違えてはいけないと思う。部落問題だけが解消(解決)されることを目的にしていては,逆に部落問題の解消など決してされることはない。<目的が手段を正当化してはいけない>とは埴谷雄高の言葉だが,部落問題の解消という<目的>のために,他の人権問題を放置したり自分の人権感覚や人権意識を顧みることをしなかったり,まして他者を愚弄・揶揄したりするような<手段>は正当化できない。

私にとっての部落問題・部落史の研究と実践は,人権教育と同じく「自分自身」のためである。自分の感性と言動を磨くためであって,人を非難するためのものではない。部落問題・部落史の「知識」がなくとも,生徒の人権意識や感性を見事に磨き上げている教師を何人も見てきた。

今年退職されたある女性先生だが,長年の経験に裏打ちされた自信と信念が毅然とした態度をつくりあげ,何事にも動じない。しかも限りなく暖かい。一生涯を生徒共に過ごすと決められ管理職など見向きもせず,退職されるその日まで担任を貫き通された。生徒からの信頼は絶大なものだった。その先輩と過ごせた5年間,私は多くのものをいただいた。感謝している。


このことは必ずしも生徒だけに限らない。(還暦も過ぎた)大人の中にも,そのような人はいる。自分の非を認めない意固地な人間は,同じような対人関係上のトラブルを繰り返す。なぜ人から相手にされなくなるのか,なぜ人から同じようなことを言われるのか,その場合に自分を内省せず相手のせいにする人間は,いつまでも同じ轍を踏み続ける。しかし,自分に非はないと思い込み,相手を批判する。そして,相手にそっぽを向かれる。
自分の人間性にこそ問題があることに気づかない人間は不幸である。否,相手こそが不幸だ。

posted by 藤田孝志 at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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