2010年09月04日

林力先生の教え

先生は教え方に責任がある

数年前,朝読書の時間に林力氏の著書を読んでいたときのこと,わずが10分間の読書なので僅かなページしか読めないのだが,時としてそれが1ページ,数行で留まってしまうことが度々ある。1つのエピソードや1の文節が,1つの言葉が重いのである。自分の実践を振り返り,日常生活でのあり方を問わざをえない思いに駆られる。今読んでいる『若き教師たちへ』もずっしりと重い言葉が次々とあらわれて,ページが先に捲れないこともある。

「先生は教え方に責任がある」…この言葉にしても当然のことだでは片付けることができなかった。この一文の中に,被差別部落の識字学校で聞いた一人のお母さんの話が紹介されている。自分の息子ができが悪く,いつも「×」ばかりのテスト用紙を持って帰る。ある日,また×ばかりと思って見ていたら,大きな×の字がいっぱい書いてある中に,かげに隠れて恥ずかしそうに小さな「○」が一つ付いていた。なんと小さな○かと思って見ていたら,だんだんと腹が立ってきたいうのである。

以下,原文をそのまま書き写す。この言葉を自戒として今も心に刻んでいる。

「…先生ちゅうのは,受け持ちの子がみんなわかること,百点ばとるごとすることがしごとじゃなかとですか。みんなに百点とるごと教えんならん者が,子どもができそこのうたとき,どうして,あげん大きな×はつけんならんとやろうか。自分の教え方に責任がありゃしないか。今度どう教えたらよかとじぁろうか,思うたら,恥ずかしいやら心配やらで,×の字は小そうなるじぁなかろうか。反対にたった一つでも○があったら,うれしゅうて,もっとがんばれよってゆうて,○の字は二重や三重の大きな○になるのじぁなかとでしょうか。…」と問われたことがある。

たかがテストの○付けとしか思っていなかった私は唯々恥じ入るしかなかった。<テストの結果は教師の指導に対する評価である>と聞いたことがあるが,その意味をわかっていたであろうか「こんなこともわかっていないのか」「何回も同じことを教えたのに…」などと,×を付けながら思っていた私の何と高慢なことかと,本当に情けなかった。その後におこなった冬休みの課テスト,自分の教科指導と指導法,生徒との関わりを意識しながら,一人一人の顔を思いながら採点をした。採点時間は倍以上もかかったが,生徒一人ひとりを身近に感じることができた。自の指導法に不足していたものに気づくこともできた。テストは<教師に対する評価である>をあらたて実感した。

人の欠点やまちがいを探して批判することほど簡単なことはない。まして自分を安全な地点において,何のリスクも負わず,一方的に批判だけする人間や,批判することでしか自己の正当性を主張できない人間の信用性など取るに足らないものだ。

続けて林氏は次のように書いている。

「同和」教育運動は圧倒的多数の教育を受けられなかった人びととのかかわりを通じて,教師が問われ,教師が変えられていく側面をもつ。たんに部落の子どもをどうする,社会への啓発をどうするということだけではない。そのことを「事実と実践で勝負する」とか「差別の現実に深く学ぶ」と表現してきたのである。

このことを勘違いをしている教師や同和教育に関わっていると自認している人々が多いような気がする。

同和教育・人権教育は「部落の子」「被差別の立場の子」を救済するための教育ではない。教育の本質を問い続ける教育の営みであり,すべての子どもの人権を保障すると同時に人権の大切さを学び合う教育実践である。そして,この対局に「差別と人権侵害」があり,「同和利権」「えせ同和」があるはずなのに…。 

イスラエルや中国の言い伝えに【おなかがすいた子どもに,一匹の魚を与えれば,その日だけの食べ物にしかなりません。しかし,魚のとり方を教えれば,一生の食べ物をあげたことになる」がある。同和教育の目的は後者であるべきと思う。


権威と権力

教師の立場,教師の都合,学校の校則や秩序というものをふりかざし,どれだけ子どもの真実を黙殺し,人間としての願いをふんづけてきたことか。そのとき,わたしは子どもや親にとって,権威者,権力者としての存在であった。でも「よか先生」と思いこみ「民主的教師」と胸を張っていたのだ。子どもたちは,教師を選択する立場にはない。人間同志だから,子どもにとって不幸な出合いもある。教師との出合いは宿命的ですらある。だから,教師はせめて子どもの前に立つとき権力者であってはならない。子どもの前の権力者であったとき,例え彼が労働者であることを誇りにしていようと,すぐれた組合活動者として反権力の闘いを展開していようとも,つまり彼の主観的意図や客観的立場を超えたところで,彼は子どもや親にとって差別者以外の何でもなくなってしまう。それは恐ろしいことなのだ。いま,漸く,それが分かる。

(林 力『差別認識への序章』)

「立場が人を変える」と自分の変わり身を正当化した教頭がいる。だが,それは自分自身への言い訳にすぎない。「立場」によってではなく,自分が「立場での言動」を選択したのだ。いかなる「立場」であろうとも,決して自分の本質を変えることなく職務を遂行していく者もいる。「場」に付随する「権威」を自分が生み出したと勘違いし,「権力」を行使する者はその愚かさに気がつきさえしない。

管理主義教育の弊害は,生徒を管理する以上に教師を管理することによって生まれる。その根本的な要因は,管理職が「権威者」と自らを錯誤することから生まれる。それらは日常の職場で「指示・伝達」いう命令と,「報告」という義務の形で「目に見えぬ抑圧」となって,管理職の存在自体を高慢にし,教職員を束縛していく。「生徒のため」という大義名分を題目のように利用しながら,彼らの視線は「生徒」ではなく,クレームを言うかもしれない「保護者」の方にしか向いてない。教育委員会の忠実な代理人となり,自らの保身のみを考える。このような教育こそが管理主義教育である。

「最近の教員には情がないね」と,同僚の先輩女性教師が漏らした言葉が心に突き刺さっている。確かに,若き日に出会った先輩には「情」があった。生徒に注ぎ続ける深い愛情と親身になって関わる姿勢に多くのことを学んだ。体裁ばかりを取り繕う教師,規則や規律を押しつける教師,ただ無難に職務を遂行するだけの教師が増えている。教師から「情」を奪い,「事勿れ」を優先させているのも管理主義教育と思う。

「権威」は「立場」によって得られるものではなく,周囲が認めることで付与されるものだ。「立場」によって与えられるものは「権威」ではなく「権力」である。「権力」の行使に満足を得る人間が歴史を歪めてきた事実を忘れてはならない。

同様に,いかなる管理主義者がいようとも,無批判に追随してはならない。林氏の至言にあるとおり,教師は権力者であってはならない。このことだけは自戒し続けなければならない。


先日,あるサイトの「掲示板」に次のような書き込みをした。

ある講演録を読んでいて,なるほどと思うことがあった。○×の世界観っていうんだけど,二元化して物事の価値を判断する傾向が現代人には強いそうだ。これも教育の弊害,共通1次世代・TVクイズ世代に多い。つまり「できる・できない」「強い・弱い」「やれる・やれない」という価値判断によって物事を見ている。このような価値観だと,できない子は×,強くない子は×となってしまう。これに「正義」とか「正当」とかいう理屈がくっつくと,「差別」にしても極論になってしまう。はたしてそうだろうか?人間ってそれほど単純ではないような気がする「差別をする・しない」「差別を許す・許さない」ってね。現実社会において,そんなに強い人間ばかりではない。強くなくても,できなくても,一生懸命に生きようとする子もいる。いっぱいいる。差別を許せないけど,そこまで強く言動できない子もいる。ハンセン病訴訟のとき,私は原告にはならないけど,あんたらの言いたいことはわかるし応援をしている。がんばってなと言ってくれた同じ入園者が支えになったって言ってた原告の方がいる。できなかったら,できる人がすればいい。できない者をできる者が批判するのは簡単だし,まして排除するのはたやい。

がんばれ,がんばれの言葉が重荷になることもある。心配しているという言葉が負担になることもある。頻繁な励ましが苦痛になることもある。かつて不登校の生徒が担任の家庭訪問や電話が一番苦痛だったって言ったことがある。人間関係は一方通行であったらいけない。相手のことを思いやる場合,自己中心的になってはいけない。そっと見守ることが適切なこともある。

以前にはこのようなことは思わなかっただろう。「差別者」は決して許さず,また「傍観者」を許さなかった。「差別と闘う子」を育てることが同和教育と思ってもいた。確かに,これは一の「真理」ではある。しかし,「差別と闘う」立場だからといって,自分の判断で一方的に「差別」と決めつけて,その言動だけでなく,その人間をも否定することに疑問も感じてきた。「差別と闘う」言動ができない者は「差別者」なのだろうか。「傍観者」は「差別者」なのだろうか。「差別」を受けたことがないから「痛み」がわからず,そのような甘いことを言うのだ,という批判もあるだろう。

だが,「差別」はちがう。「差別を受けた者」が他の場面では「差別者」となることもある。その逆もある。このことからも重要なことは,「差別者」を糾弾することではなく「差別」をなくしていくことだと思う。「差別者」の責任追及や批判をすることが「差別」をなくすことになっているように思える。さらに「差別者」を批判することによって,自分が「差別をなくす立場」に立っていると思い,しかも「差別者」ではないことが証明されたとでも思ってる。「差別者」を「敵」としか思えずに批判し,排除さえする者が,自分を問わずに「差別」をなくすことなどできるはずもない。

「権威」ある者と思いこむことの恐ろしさは,「差別者」と決めつけて指弾する者と同じだ。人間が幸せに暮らすことができる社会を実現するために「人権」がある。「人権」が認められる社会を実現するために「差別」をなくさなければならない。すべての人間が住みよい社会であって,一部の人間のためであってはならない。まずは自らを問うことだとあらためて考えさせられた。

posted by 藤田孝志 at 12:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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