2012年04月22日

自己実現

人生は「自己実現の行路」である。

私は,教師の仕事は個々の生徒の「自己実現」の一端をサポートしていくことだと考えている。
様々な生徒がいる。家庭環境も生活実態も異なる。生育過程も違えば,考え方や生き方も違う。そのような生徒を画一的・統一的に教育するべきではないし,できるはずもない。

教育を国家統制の手段と思い込んでいる人間もいるが,確かにそのような側面は否定できないが,学校現場では決してそのような一面的な教育は行われてはいない。

学校現場を知らない人間が,TVや雑誌・新聞,インターネットなどの「情報」を鵜呑みにして独善的な憶測から,あれこれと批判するのはどうかと思う。一部の教師や学校を例に,すべての学校や教師がそうであるかのように普遍化するのは,偏狭な認識としか思えない。「木を見て,森を見ていない」「猫も杓子も…」である。教育や学校現場を批判するのであれば,それなりの実態調査をしてからにしてもらいたいものだ。


私は「自己実現の行路」について,世阿弥が『風姿花伝』で述べている「時分の花」と「真の花」の概念を援用して考えている。私の考えは,世阿弥の考えとは異なるかもしれないが…。

世阿弥はこの二つの概念について,「真の花」が本物で「時分の花」は偽物だとか,「真の花」が高級で「時分の花」は低級だとか,そんな事は一言も言っていない。ただ「時分の花」はやがて失われると言っているだけである。そして「時分の花」が失われた時,「真の花」を手に入れていない者の能は下がる,「真の花」を手に入れた者の能は下がらない。そう言っているだけである。

私は,人間が成長していく過程において,その時々の「時分の花」を咲かす。成長とともに「時分の花」は枯れ,新しい「時分の花」が咲く。その繰り返しの中で,やがて枯れることのない「真の花」を咲かすことができる。そのためには,その時々の「時分の花」を精一杯の努力によって咲かさなければいけない。

「時分の花」を咲かすためには,誠実さと素直さ,謙虚さが必要である。
独善的な傲慢さや偏狭な意固地さは,歪んだ花を咲かす。他者との深い交流によって培われるのであって,他者との交わりを拒んだり他者に対する一方的な批判ばかりでは自分を客観視することも自己変革することもできない。偏向的な自己実現しかできないだろう。
また,深遠な真理や膨大な知識が溢れている偉人たちの著書であっても,独断的な解釈からは真の理解は生まれないだろう。

知識は人を生かすためであって,人を殺すための道具ではない。

posted by 藤田孝志 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時分の花 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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