2012年05月23日

「自分の言葉が軽い」−教師の立場と姿勢 

転勤の荷物の中から偶然にこぼれ落ちた薄い冊子を何気なく読み始め,いつしか引き込まれて時を忘れた。

差別のために文字の読み書きが出来ない環境におかれなければならなかった親。この親のもとに生まれた子どもたちを,教育が再び置き去りにしていることに気づかず,これを当たり前とする教育習慣を,人権の視点から見直さなければなりません。そのためには,教師自らが,差別にとらわれず,自立することが何よりも先決問題です。自立することを差別からの解放というんです。

教師という呼び名に3つあると言った人がいます。すなわち「教師,先生,教育者」の3つです。…「教師」とは,衣食住のためにするひとのこと。「先生」とは,教科指導のうまい人のこと。「教育者」とは,子どもの心に灯りを灯せる人のことを言うそうです。

先生方,自分の心の奥に,本当に部落差別はありませんか,一度自分に尋ねてみてください。本当は自分の中に差別する気持ちがあるのに,それを別に置いといて,「差別はいけません」と教室で言っているのと違いますか。それは,もうやめましょう。まず,先生自身の価値観から問い直していきましょう。具体的な差別の現実を抜きにした同和教育の実践は,「差別のばらまき」になります。

(坂口恵美子 1996年岡山県同教大会記念講演『子育ての四季』より)

講演で紹介された生徒の作文にあった一節にはっとし,自分自身をあらためて見つさせられた。

僕らを信じて打ち明けてくれてすごく嬉しかった。NやTがぼくとこ部落やって言ったとき,僕は「そんなん気にせえへんで」って言った。そやけど,気にせえへんでって言う自分の言葉がすごく軽い感じがしたんや。自分の気持ちを一生懸命伝えてるつもりやのに軽く響くんや。僕は去年,同和教育の集中授業もええ加減な気持ちで受けてた。自分とは関係ない話やと思ってた。二人の話を聞いて,初めて部落のことが自分の友だちのこと,つまりは自分の問題なんやって気がついた。そやから,気にせえへんでって言ったけど,心のどこかで,それだけでええんかっていう気持ちがあったんやと思う。それで自分の言葉を軽いと感じたんやと思う。


【教師である自分が,教室で生徒に向かって語る言葉に,教師自身の存在の重さがありますか。】
この問いかけに,どれほどの教師が自信を持ってうなずくことができるだろう。私には自信がない。「自負」している教師など一人もいないだろう。少なくとも私が知る限りでは,そのような教師にあったことはない。もし,そんな教師がいれば,相当の「自信家」か「自分が見えてない」かのどちらかだろう。(「教師批判」を書く元教師の評論家はいるけど…)

あらためて教師としての立場・姿勢・視点を考えさせられている。なぜ部落問題に関わり,人権教育を中核とした教育実践に取り組み続けているのだろうか。「生徒のため」という言葉を教師はよく使う。しかし,何が生徒のためであるかは,その教師の主観的判断でしかない。冷静な客観性が求められて当然でありながら,実は「思い込み」でしかないことが多い。教師ほど自己流が通用する世界はない。教師ほど権威主義的な高圧的態度が通用する世界もない。

【人権意識とは感性である】と私は思う。
感性は研磨されなければ鋭さは生まれない。人権問題の解決に対する第一歩は「気づき」である。気づくためには感性が鋭くなければならない。次に「判断」である。的確な志向性をもった判断をおこなうためには「判断力」が必要である。知識や理論は感性や判断力を身につけるために必要なのであって,単なる知識や理論だけで人権教育をおこなうべきではない。

価値観や生き方が多様化している現代社会において,旧態依然の教師像や教育方法は通用しない。今までは漠然とした目的意識や曖昧な教育理念であっても通用したであろうが,今後は明確な目的意識をもち,しかも多種多様な状況下にあっても決して揺らぐことのない信念に基づいた人権教育の実践ができる教師が求められている。

端的に述べるならば,教師自身が人間として自らの生き様にどれだけの責任をもっているかが問われているのだと思う。生徒に「知識」や「対処法」を教えるのではなく,生徒が自らを見つめ考えると同じく,教師が考えなければならない。「自分にとって」を問い続ける姿勢,「自分には何ができるか」を追求する姿勢である。

立場とは,教師として人権問題の解決を自らの課題としているかどうかである。
徳島商業高校に長く勤務された岡本先生は,教師としての出発に際して,「学校の方を向いて仕事をするか,生徒の方を向いて仕事をするか」を命題として掲げた。簡単なことのように思われるが,いつしか薄れていく意識である。日々の教師生活に慣らされていく中で,自らに問いかけることが消えてしまい,惰性に流されてしまう。「生徒のため」と思い込んで語る言葉が,いつしか「軽く」なってしまう。

posted by 藤田孝志 at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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