2012年06月01日

7年前

次の拙文は7年前に書いたもので,旧HPに掲載していた。

目的は手段を正当化する−Der Zweck heiligt die Mittel−

イラク紛争・報復テロなど,ここ最近の政治情勢を見ていると,かつて埴谷雄高が編著『内ゲバの論理−テロリズムとは−』で問いかけた<目的は手段を浄化しうるか>という命題が蘇ってくる。そして,この命題は政治のみならず,すべての運動や活動,教育の場においても問わなければならないと命題と考える。部落解放運動においても,人権教育・同和教育においても必然の命題である。

ここ数日,思うことがあって遅ればせながら『同和利権の真相』シリーズを読んでいる。また反論の『…深層』なども読み合わせている。正直,いろいろと思うことはあっても,今まであえて踏み込まなかった部分だが,立場を越えてやはり考えるべきことだと思うようになった。部落史に専念してきたことより,全解連という立場と相容れない立場に自分がいるということから,よく読みもせず,一方の論調に与していたというのが偽らざる事実だ。だが,はたしてそうなのかという疑問が常にあったことも事実だ。どちらの言い分が正しいのかということも含めて,この問題について自分なりの考え,そして今後の方向についても考えてみる必要を感じている。

というのは,最近,いくつかの差別事象に対して同和教育の実践者と自任している方々の批判を読む中で疑問を感じることがあったからだ。端的に言うなら,ある種の扇動的な感じを受けた。差別事象や差別者を「糾弾」するのではなく「指弾」することで同調者の結束を意図しているように感じられた。幾度も繰り返し表現される「仲間」とか「つながり」という言葉に「利害」や「排他性」を感じてしまう。かつての学生運動に見られた「党派性」や「セクト主義」と同じものが見える。

私はいかなる理由があろうとも「目的のために手段が正当化」されてはいけないと思っている。

人に違いがあるように,闘い方にも違いがある。しかし,私は「活動家」ではない。私は「教師」だ。「利害」や「戦略」とはもっとも遠い場所に立つべき「教師」である。「差別」に反対する「活動家」は「差別」がなくなると困る。「差別」がある方が自分の活動の場が広がる。「差別事象」が起これば起こるほどに,自分が必要とされるわけだからだ。「差別事象」を媒介にして自分を売り込んでいる「活動家」の姿がそこに見えてくる。この自己欺瞞を自らに問いながらも越えていこうとする者は少ない。同和教育が繰り返し提唱してきた「つながる」「仲間を大切にする」「被差別の立場」「被差別の現実に学ぶ」というフレーズのもとで,どれほど人を大切にしてきているだろうかを改めて自らに問い直す者は少ない。

一昨年の全国人権・同和教育大会のある分科会,発表者である教師にある青年が会場から辛辣な批判を繰り返した。その大義名分は「部落の子」「ムラの子」のために,の繰り返しであった。それを聞いていた私の友人は,「しんどい思いで生きているのは部落の子だけか」ってつぶやいた。「部落のため」「ムラの子のため」がすべてではないだろう。一方に立つことは他方を否定することにつながる。教師は「弱い子(立場)」「被差別」「しんどい子」という表現に弱い。でも,冷静になって考えみるとき,はたしてそうだろうか。私はそうは思わない。そうであってはいけないと思う。「闘う」のではなく「なくす」ための教育が必要だと思う。「指弾」ではなく「糾弾」である。水平社宣言の精神をまちがって受けとめてはいけない。なぜ最後の一文が「特殊部落民」ではなく「人間に光あれ」なのかを。

原点に還るべきと思う。同和教育は「部落の子のため」ではなく「被差別の立場のため」に始まった教育であるが,その本質は「すべての子のため」にあらゆる不合理な差別をなくしていく教育の営みであったはずだ。

いつしか「目的」が「手段」を正当化してしまっている。「目的」のためには,いかなる「手段」であろうとも正当化され,許されている。今年,私は自己欺瞞と決別したい。大義名分も甘言も排して,孤立無援の中になっても真実を凝視して生きたい。

今年,第64回全国人権・同和教育研究大会が岡山で開催される。実は,7年前を最後に,以後は一度も参加していない。参加する意味を感じなくなったのが正直な理由である。違和感と言ってもいいだろう。

地元開催ではあるが,多分行くことはないだろうが,発表レジュメを見てから決めようかと思っている。


次の拙文も,以前に掲載していたものだ。あらためて「初心」の大切さを思う。

権威と権力

教師の立場,教師の都合,学校の校則や秩序というものをふりかざし,どれだけ子どもの真実を黙殺し,人間としての願いをふんづけてきたことか。そのときわたしは子どもや親にとって,権威者,権力者としての存在であった。でも「よか先生」と思いこみ「民主的教師」と胸を張っていたのだ。子どもたちは,教師を選択する立場にはない。人間同志だから,子どもにとって不幸な出合いもある。教師との出合いは宿命的ですらある。だから,教師はせめて子どもの前に立つとき権力者であってはならない。子どもの前の権力者であったとき,例え彼が労働者であることを誇りにしていようと,すぐれた組合活動者として反権力の闘いを展開していようとも,つまり,彼の主観的意図や客観的立場を超えたところで,彼は子どもや親にとって差別者以外の何でもなくなってしまう。それは恐ろしいことなのだ。いま,漸く,それが分る。          

(林 力『差別認識への序章』)

「立場が人を変える」と自分の変わり身を正当化した教頭がいる。だが,それは自分自身への言い訳にすぎない。「立場」によってではなく,自分が「立場での言動」を選択したのだ。いかなる「立場」であろうとも,決して自分の本質を変えることなく職務を遂行していく者もいる。「立場」に付随する「権威」を自分が生み出したと勘違いし,「権力」を行使する者はその愚かさに気がつきさえしない。

管理主義教育の弊害は,生徒を管理する以上に教師を管理することだ。その根本的な要因は,管理職が「権威者」と自らを錯誤することから生まれる。それらは日常の職場で「指示・伝達」という命令と,「報告」という義務の形で「目に見えぬ抑圧」となって,管理職自身を高慢にし,教職員を束縛していく。「生徒のため」という大義名分を題目のように利用しながら,彼らの視線には「生徒」ではなく,クレームを言うかもしれない「保護者」しか向いてない。教育委員会の忠実な代理人となり,自らの保身のみを考える。このような教育こそが管理主義教育である。

「最近の教員には情がないね」と,同僚の先輩女性教師が漏らした言葉が心に突き刺さっている。確かに,若き日に出会った先輩には「情」があった。生徒に注ぎ続ける深い愛情と親身になって関わる姿勢に多くを学んだ。体裁ばかりを取り繕う教師,規則や規律を押しつける教師,ただ無難に職務を遂行するだけの教師が増えている。教師から「情」を奪い,「事勿れ」を優先させているのも管理主義教育と思う。

「権威」は「立場」によって得られるものではなく,周囲が認めることで付与されるものだ。「立場」によって与えられるものは「権威」ではなく「権力」である。「権力」の行使に満足感を得る人間が歴史を歪めてきた事実を忘れてはならない。

同様に,いかなる管理主義者がいようとも,無批判に追随してはならない。林氏の至言にあるとおり,教師は権力者であってはならない。このことだけは自戒し続けなければならない。


先日,あるサイトの「掲示板」に次のような書き込みをした。

ある講演録を読んでいて,なるほどと思うことがあった。○×の世界観っていうんだけど,二極化して物事の価値を判断する傾向が現代人には強いそうだ。これも教育の弊害,共通1次世代,TVクイズ世代に多い。つまり「できる・できない」「強い・弱い」「やれる・やれない」という価値判断によって物事を見ている。このような価値観だと,できない子は×,強くない子は×となってしまう。これに「正義」とか「正当」とかいう理屈がくっつくと,「差別」にしても二極論になってしまう。はたしてそうだろうか?人間ってそれほど単純ではないような気がする。「差別をする・しない」「差別を許す・許さない」ってね。
現実社会において,そんなに強い人間ばかりではない。強くなくても,できなくても,一生懸命に生きようとする子もいる。いっぱいいる。差別を許せないけど,そこまで強く言動できない子もいる。ハンセン病訴訟のとき,私は原告にはならないけど,あんたらの言いたいことはわかるし応援をしている。がんばってな!と言ってくれた同じ入園者が支えになったって言ってた原告の方がいる。できなかったら,できる人がすればいい。できない者をできる者が批判するのは簡単だし,まして排除するのはたやすい。

がんばれ,がんばれの言葉が重荷になることもある。心配しているという言葉が負担になることもある。頻繁な励ましが苦痛になることもある。かつて不登校の生徒が担任の家庭訪問や電話が一番苦痛だったって言ったことがある。人間関係は一方通行であったらいけない。相手のことを思いやる場合,自己中心的になってはいけない。そっと見守ることが適切なこともある。

以前にはこのようなことは思わなかっただろう。「差別者」は決して許さず,また「傍観者」も許さなかった。「差別と闘う子」を育てることが同和教育と思ってもいた。確かに,これは一面の「真理」ではある。しかし,「差別と闘う」立場だからといって,自分の判断で一方的に「差別」と決めつけて,その言動だけでなくその人間を否定することに疑問も感じてきた。「差別と闘う」言動ができない者は「差別者」なのだろうか。「傍観者」は「差別者」なのだろうか。「差別」を受けたことがないから「痛み」がわからず,そのような甘いことを言うのだ,という批判もあるだろう。

しかし,「差別者」と「差別」はちがう。「差別を受けた者」が他の場面では「差別者」となることもある。その逆もある。このことからも重要なことは,「差別者」を糾弾することではなく,「差別」をなくしていくことだと思う。「差別者」の責任追及や批判をすることが「差別」をなくすことになっているように思える。さらに「差別者」を批判することによって,自分が「差別」をなくす立場に立っていると思い,しかも「差別者」ではないことが証明されたとでも思っている。「差別者」を「敵」としか思えずに批判し,排除さえする者が,自分を問わずに「差別」をなくすことなどできるはずもない。

「権威」ある者と思いこむことの恐ろしさは,「差別者」と決めつけて指弾する者と同じだ。人間が幸せに暮らすことができる社会を実現するために「人権」がある。「人権」が認められる社会を実現するために「差別」をなくさなければならない。すべての人間が住みよい社会であって一部の人間であってはならない。

まずは自らを問うことだとあらためて考えさせられた。


前任校での約10年間,前半と後半それぞれに違う意味で「試練」であり「成長の糧」の時期であったと思う。人との出会いによって人間は成長できるのだと振り返って思う。

posted by 藤田孝志 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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