2013年02月17日

Time goes by

携帯電話のCMに,Every Little Thing の「Time goes by」が使用されていて,最近よく耳にする。好きな曲のひとつだが…。

今年度はとても早く月日が過ぎていったように感じる。年々,そう感じる度合が増してきていると思うのは,きっと自分が歳をとってきたせいだろう。


先日,久方ぶりに古書店を訪ねたところ,3月で閉店するという。専門書を扱う古書店としては在庫量も多く,探求書の何冊かはここで見つけたことがある。
閉店ということで8割引とのこと。だが,お目当ての本も,いつか買おうと思っていた本も,時すでに遅く,ほとんどが消え去っていた。埴谷雄高全集など高価な本が1000円ほどで買えるのだから…。専門書にしても,有名な本や希少本などその世界での資料的価値の高いものは早々に買い求められていた。残念であるが,仕方がない。今週末にもう一度時間をかけて探そうと思っている。

買い求めた数冊の中に,池田晶子『考える日々U』がある。偶然に手にとって拾い読みをしていて,「江藤淳氏が自殺した」の一文が目にとまり,つい買ってしまった。江藤淳氏が亡くなったことは知っていたが,その死の事実については知らなかった。別に死の真相が知りたかったわけでもなく,池田晶子氏が江藤氏について何を書いているかに興味があったからだが,江藤氏の死に関してはさすがの一言であった。

…自殺した人の本当の思いは,その人以外にとっては,やはりどこまでも推測でしかあり得ない。

見事であるというか,彼女らしい。

遺族にとって,人の死,それが自殺であれば,尚更に触れてほしくはないのは当然だろう。それが普通の感覚だと思うが,自分のことしか考えない人間もいる。
自己正当化の手段として,自分がおかれた境遇の厳しさやそれを克服してきた自分を誇張するための対比として,他者の自殺(「前任者が自殺した」)を繰り返し書き続ける無神経さに不快感を禁じ得ない。ブログに公開している文章であれば,名前を伏していても,簡単に個人を特定できるにもかかわらず,関係者にとっては辛いであろうことを,そのことで自分が被った迷惑ばかりを強調して非難する無責任さにも辟易する。
人の死を利用する傲慢さと自己顕示欲に呆れ果てる。

池田氏の同書に,埴谷雄高を知る人たちにインタビューしてまとめた本の著者に対する批判が書かれている。

埴谷氏の最後については,深く傷ついている人がいる。私は彼女らから何度も相談を受け,できる限りのことをしたつもりで自分ではいる。そして,このままでは彼女らがあまりにも気の毒だと思ったので,ある雑誌で企画を実現させた。埴谷雄高の日常を最も知るのはこの人たちだと。
当の学生が,私に無礼なことを書いて寄こしたのは,この後である。私が彼女らを「利用した」と。…

今にして思うと,彼は,埴谷氏の身辺を調べるうちに,その最後に関して様々な出来事があったのを知り,特ダネを見つけた,というふうに思ったのではなかろうか。…

…しかし,こじれにこじれた版元や御近所や親類の方との関係の中で,ありのままを述べれば,傷つく人や迷惑する人がたくさんいる。何よりも埴谷氏の名誉がある。…

学生は「事実は明らかにしなければならないじゃないですか」と言ったことがある。しかし,事実の断片を聴き回り,それを公にすることで,傷つく人がいることを,どう考えているのだろうか。

…だからこそ,彼は,人を利用し,再び人を傷つけていることを,知ることがない。
世の中には,為すべきことと,為すべきでないことがある…

私も「当の学生」が書いた『変人−埴谷雄高の肖像』を読んでいる。今回,池田氏の文章が気になり,改めて読み返してみたが,それほどには感じなかった。だが,関係者には許せない内容もあるのだろう。埴谷氏のファン(愛読者)にしてみれば,知られざる一面を垣間見る面白さが十分に感じられる一冊だろう。埴谷雄高に深く関わった人たちが彼の著書や彼自身との出会いを基本軸にしながら,彼に関わるエピソードを交えながら自分自身の思いを語ることで埴谷雄高という巨大な思考体を多面的に分析していくように読めるインタビュー集と思う。

しかし,ある事実(言動・体験)は関係者の視点や捉え方によって,様々な解釈となって残る。全く正反対の受け止め方で人の心に残ることもある。

「事実の断片」を拾い集めても「事実」になるわけではない。「断片」は「断片」でしかない。その「断片」を憶測で繋ぎ合わせても,どれほどの「事実」(真実)に辿り着けるだろうか。
むしろ,憶測が一人歩きしてしまう危険がある。「仮説」である憶測が次の憶測のために「事実」にすり替わり,そこから憶測が始まって「仮説」を生み出すという,いつしか独善的・独断的に「仮説」が「事実」となってしまう。

さらには,最初から「結論」が用意されていて,それを証拠(理論)立てるために「事実無根」「虚偽」さえ捏ち上げる。「虚偽」を「事実」にする詐欺師まがいの手管を労してまで自己正当化をはかる人間がいる。人が傷つくことも,人を不愉快にさせることも,自己保身のためには何も思うことさえない。そんな人間がいる。

その池田晶子氏も亡くなって久しい。ここ数年,随分と気になる人たちが亡くなっている。やがて私もこの世を去るだろう。その時までに,私は何を為すことができるか,何を残すことができるか。

遺すものを創造しながら生きていこうと思う。ただ,人を不快にさせたり,傷つけたりするものを自分の人生として遺すような愚かさだけはしたくない。そう思っている。

posted by 藤田孝志 at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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