2013年02月24日

「批判」

前回,私は「前任者の自殺」などとブログに書くことへの無神経さを問題にしたが,それは死者はもちろんであるが,それ以上に遺された遺族への配慮のなさに呆れたからである。自分のことしか考えない人間の傲慢さへの怒りである。


そのような無神経な人間とは対照的な人間もいることをあらためて知った。

先日,週刊誌(漫画だが…)に掲載されていたエッセイに深く考えさせられた。
著者は,話題の映画『遺体〜明日への十日間〜』の原作者である石井光太さんである。この映画は是非とも観たいと思っている。

無断転載ではあるが,このエッセイの全文(「ちいさなかみさま」)をPDFにして掲載しておく。多くの方に読んでもらいたいからである。

このエッセイで紹介されている二人の「死者に対する畏敬」の姿に感動した。
人は,時として,その在り方によって自らの本質を見せる。決して意識しては見せることのできない姿である。本質は,自然のうちにあって無意識に体現されるのである。意図的に自らをよく見せようとか,評価してもらおうとかという姑息な人間には真似さえできないだろう。高慢さは高慢さとして,姑息さは姑息さとして表出される。

自己正当化・自己保身のために「他者の死」さえも利用する者は,いくら強弁しようとも,多くを語れば語るほどに,指の間から零れ落ちる砂のごとく,その本性を曝け出す。品性の乏しい人間が書く文章に他者の傷みへの共感はない。自分を容認する者,自分を評価する者には優しく,自分を批判する者,自分の考えと相容れない者には非難と攻撃を行う。


一人は,専門学校の葬儀関連コースで「死に化粧の方法」を教えている宿原さんである。

「故人にお化粧をする際は、まず手を合わせて『おじいちゃん、ちょっと協力してね』と声をかけてから、行うようにしています。死に化粧っていうのは、単に化粧をすればいいというわけではありません。
最近の人は延命治療を受け、薬漬けにされて亡くなるので、とても苦しそうな表情をして口を開けたり、眉間に雛が寄っていたりします。お化粧の前は筋肉を揉みほぐし、ロを閉め、表情をできるだけ和らげなければならないのです。そうやって表情を変えてから、保湿クリームをたっぷりと塗った上で、ご遺族に生前の表情をお聞きしたりしながらお化粧をしていくのです」

「ただ、自殺した方の場合、参列される方々もそのことを噂として知っていることがあります。そんな時、ご遺族には尋ねにくいので、葬儀会社の人間である私に『死因はなんですか』と尋ねてくるのです。そんな時、私は『心筋梗塞です』と答えるようにしています。ご遺族の立場を守るために、そう答えるのです。嘘だと言われれば嘘かもしれませんが、故人のプライバシーを守るのもーつの仕事なのです」

自殺だと答えれば、参列者の間に噂が広まり、遺族はさらに辛い思いをする。それを防ぐのも自分の仕事だと考え、化粧と言葉で故人のプライバシーを守っているのだ。

宿原さんのように,たとえ多くの参列者が知っていようとも,故人の尊厳とプライバシーを守り,遺族にさり気なく気遣う人間もいれば,故人と遺族が特定できるにもかかわらず「前任者が自殺」と自己保身のために繰り返し書く人間もいる。遺族への心遣いさえせず,まして同業の宗教家であるにもかかわらず,まるで戒律を破った者への見せしめのように,死者に鞭つ。

「善きサマリア人」とは誰だろうか。


もう一人は,映画にも登場する,東日本大震災の直後に死体検案の仕事をした医師である。津波で亡くなった人が毎日何十人も運ばれてくる中,一体一体遺体を調べて死因を書き記し,DNA試料を採取した。

最初に私がK医師と話をした時,こんなことをつぶやくように言っていた。

「みんな窒息だから,本当に苦しそうな顔をしていたよ。口を開けて叫ぶような表情だった。毎日,何十体もそれを見ていると,ほとほと気が滅入ってきた」

遺体はヘドロにまみれ,ねじまがり,苦しそうに顔を歪めたり,何かにしがみつく姿をしていたりしていた。同じ町の人たちがそんな姿となって運ばれてきて遺族が泣き叫ぶのを目の当たりにするのは,さぞかし辛かっただろう。

それから約一年が経った。ある夜,私はその被災地を訪れ,K医師と仲のいいS歯科医と酒を飲んでいた。その時,S歯科医が言った。

「K医師いるでしょ。先日,あの人が震災の特番に出たんだよ。その時,K医師はテレビカメラの前で,こう言ったんだ。
『津波で死んだ方々は即死だった。だから,まったく苦しんでいなかった』って。
俺も遺体安置所で歯形の確認をしていたし,K医師もずっとご遺体の検案をしていた。だから,ご遺体が苦しそうな顔をしていたのはわかっていた。それでも,K医師はテレビを観ている遺族に配慮して,『津波で死んだ人は苦しんでいなかった』って言ったんだよ。俺は本当にK医師が偉いと思ったよ」

テレビの前で嘘をつけば,記録として残ってしまうし,同じ医師から「何を言っているんだ」と非難される可能性もある。だが,K医師はそのリスクを承知した上で遺族の気持ちを考えて嘘をついたのだ。

私は,石井さんの最後の言葉が強く心に残っている。

…人は死に際して多くの荷物を遺していくものであることを思った。遺族だけでそれを支えきれない時,周囲の人々がそれを分かち合って支えなければならない。そうして初めて遺族は生きていけるのだ。

東北大震災,巨大津波で犠牲になった多くの方々を取材する中,「遺体」に寄り添う遺族を支える人々の姿を間近に見ることで,石井さんは知ったのだろう。

「事実」であれば,それを公開してもよいのだろうか。公開することで傷つく人や悲しむ人,不愉快な思いをする人がいても,「事実」であれば明らかにしても構わないという考えにはなりたくはない。黙して語らず…私ならそちらを選ぶ。世の中の,まったく関係のない人々にまで言い広めて何になるというのだろうか。私には理解できない。


池田晶子『考える日々V』に「他人を言い負かしたいだけの人」と題した一文がある。

「批判」という言葉を使いながら,実は「たんなる揶揄と中傷と揚げ足取り」でしかない他者への「批判」を書く人々への痛烈な「批判」の一文である。
哲学者らしい明晰な論理展開である。

たぶん忘れているのだと思うから,あえて教科書的なことを述べるけれども,この言葉の本来の意味,すなわちその行為と精神の本来は,例のカントの『純粋理性批判』,あの意味における「批判」に尽きている。考える機能としての理性が,自身の妥当性を吟味し,判断するということである。易しく言えば,「考える」ということを考えることで,それがどう正しくどう正しくないのか,より明らかに知ることである。

なぜそんなことをするかと言えば,より明らかに知りたいからに決まっている。そも「要る」ということは,より明らかに知りたいという動機以外によっていないのだから,知るために考える限り,考えることを考え始めるのは当然である。こう考えることは,正しいのか,正しくないのか,正しくなければ,どう正しくないのか。それを知ることで,さらに明らかに知ることができる。「批判する」とは,こういうことを言うのである。

なるほど,考えることを考えるとは,それ自体が否定の活動ではある。すでにそう在る事柄について,それはどういうことなのかと考えるのだから,理性とはその本性が否定性なのである。しかし,理性によって否定することと,感情によって非難することとは違う。たとえは,マルクスによるヘーゲル批判,ああいうのを正当にも「批判」というのである。考えのみによって,考えをひっくりかえしてゆく,それができない程度に応じて,人は感情的になる。

ネット社会となり,人々が自分の意見を述べる場が拡がったことで,誰もが手軽に(安直に)何にでも首を突っ込み,勝手な意見を述べる。「言論自由」を批判しているわけではない。ただ,その内容に,その人間の姿勢が反映する以上,「何でも書けばいい」という「自由」が他者を傷つけ,他者の人権を侵害している事実を批判しているのだ。

出版される本には,それでも編集者(そのレベルには疑問も感じるが…)によって「校正」が行われている。他者(専門家)による「チェック」が行われるか,独りよがりの文章が垂れ流されるか,その違いだ。blogの弊害を私は問題視しているのだ。

「文章作法」についても同じである。論文でもレポートでも「書き方」を学ぶ機会は減少しているのではないだろうか。それ以上に,意識して勉強(修練)する人間が少ないのではないか。

昔は,文章の書き方を高校から大学にかけて担当教官やゼミ教官から厳しく指導された。学生もまた,論文では清水幾太郎や桑原武夫,小説や評論では三島由紀夫や小林秀雄など多くの名文家の本を読んだり,彼らの文章を参考にしたりして表現方法を学んだ。

文章は誰かに指摘されることで上達する。誰からも指摘されないことは不幸とさえ思う。独り善がりの文章と内容により,気づかないままに他者を傷つける文章を書き続ける。

「…たんなる揶揄と中傷と揚げ足取り」とは,実に言い得て妙である。「批判」と称しても,その内容が他者に対する「揶揄と中傷と揚げ足取り」であれば,そこに真実などありはしない。「批判」と思っているのは当人だけであり,もし共感する人間がいれば彼もまた同程度なのだと私は思う。

…また,自分には窺い知れない他人の仕事について,安直に口を出すべきではない。小説家は小説を書き,哲学者は哲学をする。そこに何の不満があるのか。何にでも口をつっこみたがるのも,「言論界」にたむろする人々の見苦しい行ないである。

批判といい,批評といい,本来は正々堂々の精神活動なのである。それを今日のような下劣な姿に貶めたのは,他でもない「言論人」たちの,その品性なのである。

池田氏の痛烈な批判に自らの顧みるべきだろう。「言論人」がblogの登場により「一般人」(blog人)に拡大されている。内情深く知りもしないことを,まして一面識もない(直接に知りもしない)他者のことを,安直に語るだけでなく,的外れな「批判」などすべきではない。
知らないからこそ「虚偽」を捏ち上げるしかなくなるのだ。それこそ「嘘」に「嘘」を重ねるしかなくなるのだ。

もっとも良識ある人間はそんなことしないだろうが…。

posted by 藤田孝志 at 01:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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