2010年11月19日

宗教の影響

雑誌『一個人』12月号「保存版特集キリスト教入門」を買ってみた。

キリスト教の歴史に関しては,高校の世界史及び大学時代に通史を概説的に学び,キリスト教の教義や聖書についても数冊の専門書を読んだり,神学部の友人に教えてもらったり,一応の知識は学んだつもりでいる。一時期は教会に通ったこともある。
しかし,それらは哲学や心理学を理解するためであったり,現在を考えるための世界史的背景として必要であったためである。

無神論者である私にとってキリスト教は「知識」でしかなく,知的探求の対象でしかない。宗教の必要性は理解できても,人間としての自分を支える「よりどころ」や人間観・世界観となるものではない。
むしろ,マルクス主義に傾倒していた影響か,あるいはサルトルの無神論的実存主義に近い考えのためか,宗教を信じるという気持ちにはなれないでいる。信仰とか救済とかには,未だにどこか胡散臭さを感じている。それは,超越者や神の存在を否定するというよりも拒否する感覚に近いだろう。どうしても,人間が創り出したものという認識をもつ。

そして何よりも,狂信的に宗教を信じる人間が陥りやすい教条主義的な独善性が嫌いだからである。自らが信じる宗教の正当性を主張する場合,他宗教への排他的・排斥的な言動が異常と思えるほどに過激さを増し,自らが信じる宗教の教義が批判する行為さえ容認してしまい,省みることもない。歴史的に振り返ってみても,どの宗教も異教徒への激しい非難と攻撃を繰り返している。
キリスト教も同じである。中世ヨーロッパに吹き荒れた「魔女狩り」は人権侵害ではなかったのか。キリスト教にとっての異端者は殺戮してもかまわないのだろうか。
海外布教の名の下で侵略に荷担したことも,植民地支配の恩恵を受けたことも,さらに強制隔離されたハンセン病患者への慰問が逆に彼らに境遇への忍従を強制する結果となったことなど,宗教のもつ残虐性を露呈している。

私が最も嫌悪するのは,宗教家(宗教者)の中に,自らが信仰する宗教の教義を実生活で実践できていないにもかかわらず,他者や社会に対して実情を知りもせず批判を繰り返す傲岸不遜な人間がいることである。


最近の雑誌には,特集として,本書のように専門的な内容をわかりやすく解説しているものが多く発刊されるようになり,専門書を買わなくとも安価に専門的なテーマについて大観できる。雑誌の長所である写真や図表などビジュアル的な構成もわかりやすさを演出している。

本書における私の興味は,世界史そのものといっても過言でないキリスト教の歴史であり,その絶大な歴史的影響力である。歴史的人物その人に,そして社会や国家そのものに深い影響を与えたキリスト教の歴史とは何か,である。
そして,哲学のみならず,すべての学問や芸術に浸透しているキリスト教の思想とは何か,である。

本書は,私の関心に対して,その一端を数多くの建築物などの写真と,聖書の内容を題材とした絵画を通して解説してくれる。概説としては,実に上手く要点をまとめていると思う。

私は,キリスト教の歴史を世界史の背景として理解しようと考えている。また,キリスト教の思想は,社会思想として理解しようと考えている。そして,聖書は,その描く人間像から人間の生き方とあり方について学ぶべきテキストとして理解したいと思っている。
キリスト教の信仰としてはまちがった理解かもしれないが,私は無神論・無宗教の立場なのでかまわないと思っている。


私は宗教としてのキリスト教には興味があるが,信仰としてのキリスト教には興味はなく,むしろ現在のキリスト教組織には失望と不満をもっている。特に,プロテスタントの牧師制度,その管理体制には疑問がある。
宗教法人として優遇され,教団から教会と住居,財政援助を受けながら,一個人である牧師に全権が委ねられ,その牧師を指導・管理する体制も組織もないなど,あまりにも不遜で傲慢であるように思うのだ。
人間の不完全さを問い続けるはずの宗教が,あまりにも個別の人間を信じすぎて「点検機能」をもたぬ軽薄な組織をつくっている。学校教育制度の方がはるかに「チェック機能」も法的規則も,義務的な研修制度も厳しい。

宗教のもつ「独善性」は先入観や偏見と同じであり,その教条主義は排除・排他を肯定する。また逆に,かつてのオウム真理教が使ったような,攻撃されたと「虚偽」の宣伝を繰り返すことで同情と自己正当化を狙った戦術をとる。
それは,教会や教団だけでなく,牧師や信者の精神構造・思考判断にまで深い影響を与えている。いわゆるマインドコントロールである。冷静に状況を考えれば,誰だって気づくこと・わかるであろうことに気づかず,わかろうともしない。

宗教という「隠れ蓑」で自らの欺瞞や横暴さえも「自己正当化」して,他者を執拗に揶揄し愚弄する宗教家のどこに,その教義が体現されていると言うのだろうか。
日々『聖書』を読み深めて宣教する者が,教えに反する言動をしていることさえ無視する身勝手さに辟易する。

posted by 藤田孝志 at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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