2013年01月18日

本に導かれて

年末から成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』を読んでいた。ハンセン病に関する書籍のほとんどは読んできたが,2009年6月に発刊された550ページの大著は買ったままに机の横に置いたままになっていた。

ハンセン病の歴史的考察としては,『「いのち」の近代史』など藤野豊氏一連の労作や大谷藤郎氏の『らい予防法廃止の歴史』,各ハンセン病療養所が編纂した記念誌などがあるが,本書はこれら労作以上の体系的な「ハンセン病問題史」である。もっと早くに読めば良かったと後悔さえする。

なぜこのような国家的規模の悲劇が百数十年間にもわたり続いてきたのかを,成田氏の言葉を借りれば「癩を病んで終生隔離された人に共感もせず,共存までも阻んできた施策の歴史を,書き残さなくてはならない思い」から,膨大な資料をもとに究明しようとした試みである。
特に,各療養所自治会の機関誌や記念誌,関係資料を丹念に読み込み,さらに専門医としての医学上の歴史的変遷に関する分析も含めて,実に仔細な考察を行っている。
この一冊で,我が国のハンセン病問題の歴史を概観することができると言っても過言ではないだろう。


本の中に紹介(引用)されていた内容からその本へと,その本や著者に興味がわいて次の本へと導かれていくことは多い。

本書の一節に,1951年に山梨県の寒村で起こった「一家九人服毒心中事件」に関する記述があった。事件自体は知ってはいたが,本書に「伊波敏男のよる詳細なルポルタージュがある」と書かれていて,伊波氏の著書『夏椿,そして』が紹介されていた。

急ぎ,伊波氏の著書を古書店で探して購入し,一気に読了した。
本書は品切れ・絶版となっていたが,現在は大幅な加筆・改稿が行われ,さらに新稿を加えて書名も『ゆうなの花の季と』と改めて出版されている。

本書は,伊波氏がまるで運命の糸に手繰り寄せられるように,各地で息を潜めて生きるハンセン病回復者の過去と内に深く秘めた思いを,詩情豊かな語り口で伝えていくルポルタージュである。

だが,描かれる一人一人の壮絶な半生は,思わず「もしハンセン病に罹患していなければ…」と考え込んでしまうほどに苛烈で酷い。ハンセン病に罹患したために人生を狂わされた人々だけでなく,ハンセン病はその家族や親族,友人・知人さえも容赦なく「ちがう人生」を歩ませてしまう。

複雑に絡み合った「要因」を解きほぐしてみても,ただ虚しさだけが残る。誰一人として悲しみをもたない人間はいない。誰もが無情の思いをもつ。それがハンセン病問題の深刻さである。

伊波氏とはどのような人だろうか。彼の自伝ともいえる『花に逢はん』を入手して読んだ。休日の朝に届いた本書を,昼食も忘れるほどに夢中で読み耽った。


今まで療養所の中におられる入所者の方を中心にハンセン病問題を考えてきた。もちろん,社会に復帰された方が多くおられることを知らないわけではなかったが,彼らの秘した生活に思いを馳せるだけだった。しかし,それは甘い認識でしかなかったことを,伊波氏の著書から痛感させられた。

伊波氏のもとに,「ハンセン病」という運命の糸に手繰り寄せられるかのように,数奇な人生を送らざるを得なかった人々が集まっていく。彼の著書を読みながら,そんな思いを抱いてしまう。

彼らの人生を翻弄させたものは一体何だろうか。考え込んでしまう。複雑に縺れ合った運命の糸の中で翻弄される彼ら自身もまた,なぜ私は…という問いを発し続けてきたことだろう。

秘して生きる。隠して生きる。知られないために細心の注意を払い,世間や周囲の目を常に気にして生きる。
ハンセン病に罹患していたことが知られたとき,彼らを襲う世間の容赦ない対応も,まだ昔のことではない。

「秘して語らず」。これは,ハンセン病と関わりを持った者が,この国で生きるための鉄則であった。しかし,その人たちの悲しみは,癒されることもなく,時の中に埋もれようとしている。

…「ハンセン病」が,いつも「死」に寄り添いながら存在していることである。その「死」とはハンセン病を病死と結びつけた懼れではない。社会から与えられる「烙印」への恐怖が,「死」へと誘うのである。それは,病人だけでなく,近親者も巻き込んで行った。

伊波敏男『ゆうなの花の季と』「時の中に埋もれて−はじめに」より

本書の中で特に胸を打つのは,一家九人の服毒心中事件を訪ねた「往路のない地図」と,父親を事故でなくし,葬儀に一時帰宅したハンセン病の母親が村に入れてもらえず,八幡神社の森陰から葬列を見送った後に縊死した娘との邂逅を綴った「散らない花弁」である。

ハンセン病に対する偏見と無知が人間の心を狂わせ,ハンセン病罹患者だけでなく近親者・関係者すべてを不幸に突き落としてしまう。悲劇は幾重にも重なって…人の心に決して癒えることのない傷を残す。

部落問題との接点を実感する。

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2012年03月19日

二冊の本

本日,新刊されたばかりの『水平社宣言の熱と光』(朝治武・守安敏司編)が送付されてきた。

本書の「序 水平社宣言を問う意味」で守安氏が「多くの部落史や水平社運動史に関する著作でも,必ずと言っていいほど触れられてきました。しかし全水創立宣言そのものを論じた著作は,必ずしも多いとは言えません」と述べているように,「水平社宣言」に関する研究書は少ない。

私も,石瀧豊美先生の研究をベースにして拙い一文を書いているが,それは「水平社宣言」を教材化するためのテクスト分析でしかない。
自分でも不十分と感じているし,水平社に関して自分なりにまとめ,もう一度「水平社宣言」そのものを考察してみたいと思っている。

本書は,そのための指標となると思う。

私が「水平社宣言」について,その深い意味を探ろうと思ったきっかけは,西口敏夫氏の『詩集 水平社宣言賛歌』である。全同教奈良大会の時と記憶しているが,この詩集がポスターになっていて,一字一句に深く感動したのがきっかけである。その後に,西口氏の詩集も購入し,あらためて「水平社宣言」のすばらしさと,その影響の深さを感じた。

だから,今でも「水平社運動史」や「部落解放史」としてではなく「水平社宣言」そのものを味わいたい,深く考察したいという思いが強い。歴史的背景や水平社運動史に位置づけての考察も重要であるが,思想よりも一字一句に込められた西光万吉や平野小劔たちの思い,受けとめた部落民の思いを分析したい。

届いたばかりで斜め読みでしかない。時間ができたとき,ゆっくりと読み込んでみたいと思っている。


久々に紀伊國屋書店に立ち寄ってみた。時間があったのでゆっくりと店内を歩くことができ,いつもは素通りの雑誌コーナーで,『歴史REAL』の新刊(vol.6「江戸大研究」徳川幕府が続いた10の理由)が出ていたので購入した。
従来ならこのような雑誌にはあまり書かれなかった被差別民のことが「特集」(理由の1つ)として取り上げられ,詳しく記述されていた。

「社会保障システムの鍵を握っていた被差別民」(浦本誉至史)である。

江戸の被差別民は,たしかに身分による差別は受けていたものの,庶民のなかに溶け込み,江戸の治安維持・管理,皮革産業,芸能などを担う存在だった。とりわけ,貧困問題では,ひとかたならぬ貢献で江戸社会の崩壊を防いでいた。

これは,最初に書かれている本文の内容を紹介している要約であるが,従来とは異なる視点から被差別民を描いていて興味深い。

被差別民は,江戸の社会ではたしかに少数派であったし,身分差別もされていた。
しかし,一方で身分分業制によってある種の「特権」を保有し,江戸社会の一員として社会的役割を担ってきた。それは被差別民に限ったことではなく,各身分の人々がそれぞれに自らの役割を果たしてきたのである。だからこそ,江戸は,当時世界でも類を見ない巨大都市でありえたし,260年もの長きにわたり繁栄を享受したのである。その意味で,被差別民の社会を欠いては大都市江戸は成立しなかった,といっても言い過ぎではない。

このことに異論はない。そのとおりと思う。同様のことを私も主張してきた。
ただ,だからといって被差別民が百姓や町人など他身分の人々あるいは社会から差別されていなかった,賤視されなかった,賤民として扱われなかったか,という発想は短絡的である。

担っていた「社会的役割」の重要性・必要性に格差があり,また社会的評価や価値に高低があったとしても,または「特権」が与えられていたとしても,各身分がそれぞれに個別の社会的役割を担っていた「身分分業制」社会だったに過ぎない。
どれほど「社会に役立つ役割」であったとして,その役割を担った身分の者がそのことにどれほどに誇りを持って取り組んでいたとしても,民衆や社会がそのことに感謝したとしても,身分差別は歴然としてあった。

現在の警察官が民衆から感謝されていることと,江戸時代の被差別民が当時の民衆から差別されていたことは決して矛盾しない。なぜなら「時代」と「社会」がちがうからである。それを混同して判断すべきではない。

江戸時代の治安維持システム・社会保障システムを学び,被差別民の「役割」を正しく知ることは重要であるが,それと同時に彼らを差別した当時の民衆や社会がどのようなものであったかを正しく受けとめ,現在の部落問題や人権問題に生かしていくことが最も大切であると,私は考えている。

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2012年03月02日

伊集院静の文章

伊集院静氏の『続 大人の流儀』を読了した。

小気味よい展開,軽妙な筆致,含蓄のある言葉,鏤められた箴言に魅せられて,気がつけば時間も過ぎ,ページも残り少なくなって,少し勿体ないような気がして,本を伏せて外に出た。うちにも「バカ犬」がいて,私の姿を見ると時間に関係なく散歩を強請って甘えた声を出して尾を振る。
伊集院氏の言葉を反芻しながら,田圃道を犬に任せて歩く。夕暮れのひととき,少し大人について学んだ気がした。
昨日の午後のことである。

伊集院氏は「毒舌」と評されることが多い。確かに辛辣な言葉や表現もあり,謇諤な指摘や批判は誤解を招きやすいかもしれない。
しかし,私は彼の「流儀」がなんとも心地よい。「うん,そうだ」と相づちを打ち,膝をたたく。そして,限りない「男のやさしさ」を垣間見る。

伊集院静は礼節を心得た大人の男である。しかも,哀しみを知っている。半端でない哀しみを長い歳月の中で自分の言葉にしてきた。だから,人にやさしいのだ。


人は文章を書く。小説家,評論家,学者,作家,文筆家,記者,エッセイスト…様々に呼ばれても,文章を書いてお金をもらう人たちである。いわばプロである。その彼らにしても,読みたいと思う文章を書く者もいれば,二度と読みたくないと思う者もいる。まして素人である人間が「自由」に書くブログやHPの文章である。落差は大きい。
しかし,中には作家以上の名文家もいる。感動を与えてくれる一文に出合うこともある。その逆もある。

名文と駄文の差はどこにあるのだろうか。

伊集院氏の書く「文章」には,人間に対する情愛がある。思いやりの心を感じる。それは彼が両親から受けた愛情と,それに対する敬慕の思いが強いからだろう。
彼は人との出会いを大切にする。彼は人から受けた恩義を大切にする。多くの人との出会いが彼を育てたのだろう。

歪んだ心では人からの思いも歪にしか受け取ることはできないだろう。自己正当化に終始する人間は,自分に好意的な人間しか受け入れることはしない。人からの批判や忠告を素直に受け入れることができない。

「文は人を表す」というが,その人間が書く文章にはその人間が表れる。人間性が見える。それは自然に伝わるものだ。
辛辣な批判であっても,心底に相手に対するやさしさがあれば,その批判もまた心地良いと思える。素直に受け入れることもできる。
批判のための批判であったり,相手のためでなく自分の優位性を示すための批判であったりすれば,攻撃性ばかりが目につく。

「学問」であろうと「文学」「評論」であろうと文章の本質は変わらない。
「学問」としての批判であれば,何を書いても,どのように表現しても許されるというものではないだろう。大きな勘違いがそこにある。学術的に難解な用語や論理でカモフラージュしても,その目的が単なる個人攻撃であれば,文章の一言一句にその心情が表れる。

名文とは,その文章に人の心に染み込むほどのやさしさと思いやりがあり,痛烈な批判であっても素直に耳を傾ける気持ちにさせる。それは人を叩き伏せることが目的ではないからだ。

私もそのような文章を書きたいと思う。


『続 大人の流儀』の後半は,東日本大震災に関する文章が多い。そして,巻末のやや長いエッセイ「星〜被災地から見たこの国」は,震災発生時からのルポルタージュであるが,これが珠玉である。見事としか表現できない。
彼の感受性と的確なコメントに心が動かされた。今までの誰の震災レポートよりも被災者の哀しみに寄り添う文章であり,国や東電に対する的確な批判である。

実は,この一年,東日本大震災と原発事故に対して何のコメントも文章も書いてはいない。否,書くまいとしてきた。書きたくなかったし,書くべきではないと思ってきた。中途半端なコメントや,国や東電に対する遣り切れぬ憤怒など何を書いても不十分な気がしていた。その場の感情で書くようなテーマではない。そう思って一文一句書いてはいない。

…君たちは何百冊の本を読んでも学べないことをこの震災で学ぼうとしている。知識なんかよりもはるかにたしかなものは,人間が生きようとする,生き甲斐を感じる場所と時間なのだ。それが故郷というものであり,母国というものだ。人がつながり,人が継ぎ合ってきたものが歴史なのだ。

…人の哀しみはたやすくは消えないし,ぎこちなくしか笑えないかもしれないが,自分の目に入る風景は,あなたが生きている証しであり,あなたの中に生き続けるものが,きっといつかやわらかな汐の音とともに,かがやく星々とともに,安堵を与えてくれるはずだ。哀しみにはいつか終わりがやってくる。あなたが笑って立てる日を待っています。

「いつかその日はおとずれる−空に星,海に汐の音」

伊集院静のやさしさがこぼれ落ちた一文だと思う。                   

posted by 藤田孝志 at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月09日

秋の読書

私は季節の中で「秋」が一番好きだ。

書斎の窓を開けて,秋風を感じながら読書や物思いに時間を忘れる,そんなひとときに最適な季節は秋だと思う。
窓の外に広がる田んぼの色が日ごとに変わっていく。緑から黄緑へ,淡い緑に黄色が混じり始め,今は一面が黄金色に波打っている。
山も緑から黄・赤・茶など様々な色が混じり合った紅葉の季節となっている。

秋には「静寂」がよく似合う。自然の移り変わりを眺めながら,その対岸,まるで時間の流れの外にいるかのような錯覚を覚える。


先日,深夜TVで伊集院静をゲストに彼の著書について鼎談する番組があった。その時に,話題に取り上げられた本が『大人の流儀』である。話を聞きながら読んでみたくなり,早々に入手して今読んでいる。

この類の本は買ってまでは読まない。雑誌に連載されているのを喫茶店か理容店,あるいは立ち読みで済ましている。

季節のせいか,それなりの年齢になったからだろうか,この本に書かれている彼の感覚が理解できるし,共感もする。たわいのない日常の一コマについてのエッセイだが,妙に納得してしまう。

春夏秋冬と題された各章ごとに分類された短いエッセイの,その短文の中に一行あるいは一文,さらには表現に用いられた単語の一つに,はっとさせれたり,言い得て妙と感じたり,立ち止まって考え込んでしまったりさせられる。伊集院氏の文体は,どちらかといえば,現代的な軽妙さ(決して軽い?という意味ではない)で,すっと読み進んでいけるのだが…。

「人が人を信じるということ」という一文は数回は繰り返し読んだ。教師と教え子の交流をテーマに,自分と恩師との思い出を綴っている。描かれている逸話を読みながら私自身の高校時代と重なった。

私にも恩師と呼べるたった一人の教師がいる。伊集院氏の恩師がM野先生であり倫理社会の先生であったように,私の恩師も同じ教科のM口先生である。

…上京し,身体を壊わし,夢が失せ,彷徨する日々の中で自分が最後まで望みを捨てなかったのは,両親とM野先生のお陰である。

私も,曲がりなりにも教師として生きているのは,両親と恩師であるM口先生のお陰と思っている。

この一文の最後に,伊集院氏はこう書いている。

何人もの教え子に人間として何が一番大切かを教えてくれた人が日本中にいるのだろう。

この一文に,彼の優しさがある。恩師を通して彼が得たものは,信じるに値する人間がいることであり,人を信じることのすばらしさであったと思う。だから,彼は優しいのだと思う。

伊集院氏のように,教師に期待してくれる人間がいる一方で,何かにこじつけては教師の責任ばかり追求する人間がいる。
人を扱き下ろすことに終始する文章など読みたくもないが,その理由がわかった気がする。それは,他者を信じられない人間がルサンチマンの発散として書く文章だからだろう。

はたして私は恩師のような教師に少しでもなれただろうか。


この本もテレビ番組「ワールドビジネスサテライト」の人気コーナーの一つがそのまま本になったと聞いたので,興味を引かれて購入した。
この『スミスの本棚』には,番組に出演され「自分にとっての一冊」を紹介された42名の方のインタビューが収録されている。

ネットで購入したので,届くまで42名が誰であるか知らなかった。半数以上は初めて知る方たちであったが,読むうちに親近感を持ったり共感を覚えたり,興味がかき立てられたりするようになった。

こうした本を読むと「人に人生あり」を実感する。その中で誰しもが「本」とも出会っている。人生を決定するような出会いに「本」が含まれていることをうれしく思う。


久しぶりに古本屋に行き,2時間ほど店内を散策して数冊の本を購入した。

以前より探していた本も見つかり,その中の1冊は存在すら知らなかった。著者の荒木祐臣氏は郷土史家で,岡山藩に関する本を数冊書いている。私は以前より彼の本を収集しており,そのほとんどを入手していると思っていたのだが,今回購入した『備前藩宇喜多・小早川・池田史談』は知らなかった。荒木氏の著書が他にもあれば読みたいと思っていたので,思いもかけず出会ったことがとてもうれしかった。

今回のように,偶然に「お宝」と出会うことができるから,古書店巡りはやめられないのだ。私のように,フィールドとしている世界がマイナーな場合,出版部数も少ないため,入手が困難なケースが多い。実は,未だに探している本もある。

本書は『池田家履歴記』『古備温故秘録』『市政提要』など池田家関係の古典的な史料や郷土誌から史実を抜粋して書かれたものだが,それら史料そのものから読み解くよりも簡潔であり,「史秘」と称するものを知る上で便利である。
本書を元にさらに調べたければ原典史料を探せばよいのであって,解釈や考察にヒントを与えてくれる。

岡山藩に関する谷口澄夫先生などの先駆的研究もあるが,私の研究分野に接触する研究はほとんどない。また,岡山藩の細部に関する研究には未解明な部分も多くあり,それらの研究に十分な進展があるようにも思えない。(もちろん,郷土史家や地元研究者が地道な研究を続けていることも,着実に成果を上げていることも知ってはいるが…)
たとえば,私の専門とする部落史に関しても「渋染一揆」ばかりがクローズアップされるが,それ以前の穢多身分・非人身分の存在形態や身分的位置づけ,村落における百姓との関わりなど未解明な部分も多い。

何よりも単一政権として江戸時代を維持してきた池田家に関する膨大な史料群を解明すべきであろう。

本書の中で,特に興味を引かれたのが「備前の説教者」に関する史料紹介である。備前で蝉丸宮より免許を貰った説教者の名が列挙されている。
『撮要録』に「木偶人芸」の項目があるが,岡山にも多くの説教師がいたことは興味深い。


『オン!埴谷雄高との形而上対話』を知ったのは,著者である池田晶子氏が亡くなった後のことだった。いつか読みたいと思っていたが,なかなかお目にかかることがなく今日に至ってしまった。

埴谷雄高との付き合いは相当に長い。高校時代,高橋和巳を経由して埴谷雄高と出会って以来だ。最初に手にしたのは「評論」であったが,独特の文体と表現,使用語句にも関わらず,私にはわかりやすかった。
だが,彼を知るほどに,その難解さは次第に加速度を増して深くなっていった。そして無謀にも『死霊』に挑戦し,あえなく撃沈した。その後も幾度か挑戦し,大学時代には数度読み通すことができ,ある程度の概略も理解できるようになったが,彼の「思索」を追究しようとすれば,確実に挫折した。

それゆえに,未だに埴谷雄高は私にとっての未踏峰なのだ。

私の書棚には埴谷雄高の全集と何冊かの評論集,そして「埴谷雄高論」を含めた評論集が並んでいる。しかし,ここ十数年は手にも取っていない。高橋和巳の著書や関連書籍と同じく封印されたままである。

池田晶子という哲学者がどのように解いたか,まずは読んでみたくなった。


秋の読書は,今年も支離滅裂なものとなってしまいそうだ。でも,それがまた楽しい。

posted by 藤田孝志 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月02日

夏の終わりに

買っておきながら積み上げて放置している書籍,郵送された紀要や論文,コピーした資料類などを整理しようと,ここ数日間片付けているのだが,目にとまった本や資料を読み始めて,気がつくと時間が過ぎてしまい…を繰り返して一向に終わらない。それどころか本棚の整頓も始めようと思ったのがまちがいで,こちらも逆にひどくなってしまった。

元来,私は「整理整頓」が好きな方である。片付けるのも,きれいに仕分けるのも,大好きだし,散らかっていたり放置してあったりする方がむしろイヤである。
ところが,職場である職員室には,私と正反対の人間がいる。机上どころか自分の机の周囲,さらには隣の机までもあつかましく侵略しようとする人間がいる。前と左右に堆く積み上げられた本と書類,プリントの狭間にわずかな空間が残るだけの机で,仕事ができるものだと感心する。

学校は紙の世界である。生徒用のプリントに,報告や通知などの連絡書類,会議などの記録書類等々の「紙の世界」である。数日で机上が隠れるほどに集まってくる。それだけではなく,授業や研究に必要な本や雑誌類,文具類,PC関連機器もある。
古いアナログ体質がまだ多く残っているだけに,一般的な会社や事務所以上に時代後れの世界かもしれない。

しかも,何十年も前の机上が雑多に書類などで埋もれているのが「仕事のできる人間」と思っていたり,「教員の仕事と関係ない」と思っていたりする人間が非常に多い。
恥ずかしいのだが,職員室ほど雑多で汚く非効率的な職場環境はないと思っている。その最大の理由は,整理整頓を意識する人間も,実行する人間も少ないからだ。する必要を感じていないか,頓着していないか,単なる横着なだけかである。(生徒には言うのに…)

先日,本屋で「日経BPムック」シリーズの『新整理術』を買った。このシリーズには役立つ特集が多く,今までも数冊買っているが,本書にも十分に活用可能なヒントやアイテムが満載だった。書類の分類や整理の方法など参考にできるものが多く,早々に実行しようと思っている。

ということで,夏の終わり,まずは書斎から片付けようと思い立ったわけであるが…。


サイドテーブルに積み上げた本の中に,『解放令と明治維新』(塩見鮮一郎)があった。これも6月頃,出版されてすぐに買い求めていながら読んでいない。
読み始めて2時間ほどで読み終えた。いつもながら塩見さん独自の視点がおもしろい。研究者ではない作家の視点と堅くない文章が好きだ。
Blogなどに「くどい文章」を高尚さと勘違いして書いている方がいるが,読みにくいだけで楽しくない。

本書は,塩見氏の今までの関心と視点の延長にある。一連の「弾左衛門」関連,『貧民の帝都』関係の先が本書である。
江戸幕府が崩壊し,明治維新が実行される中,「解放令」が出された経緯とその影響について,政府・民衆(平人)・部落(被差別民)の各視点を交差させながら概説的に述べている。一言で,読みやすくわかりやすい。
岡山の「明六一揆」(美作津山一揆)や福岡の「筑前竹槍一揆」にも言及していて,要点を簡略にまとめている。(やや不十分さと疑問もあるが…)

塩見氏の著作から教えられたことも多いが,気づかされた視点のうち,特に納得したのが大政奉還後の江戸についてである。『貧民の帝都』に詳しいが,各藩の江戸屋敷は拝領屋敷であるから大名は将軍に返して自国に帰ることになり,そのため江戸の武士は激減する。将軍も静岡に帰り,旗本御家人もまた江戸を去る。この数年間の擾乱について教科書に一切の記述はない。

最近出版された『江戸っ子の意地』(安藤優一郎)も同じ着目によって書かれた幕末維新史である。塩見氏の二番煎じの感は否めないが,江戸幕府崩壊後の「江戸の解体」と「東京府の混乱」について幕臣の視点からよく描いていて,興味深い。

これらが,従来の教科書中心の歴史から脱却するためのポイントである。


今夏の最大の収穫は,福岡の2日間であった。
長年に渡り,私に多くの教示と示唆,深い友情を与え続けてくれている石瀧豊美先生と過ごし,夢であった「筑前竹槍一揆」の現地を訪ねることができたことが嬉しかった。

私の部落史・部落問題への視点は石瀧先生によって決定づけられていると言っても過言ではない。時に遠く離れていることが悔しく感じられることもあるが,文明の利器であるメールと電話が助けてくれる。しかし,実際に会って話すことでしか感じることのできない感覚がある。これは「現地研修」と同じである。

今回は,石瀧先生の友人とも出会うことができ,とても有意義であった。石瀧塾の世話役である塚本氏と,花乱社の別府氏である。物静かな中に旺盛な探求心と堅実な人柄を湛えた塚本氏には翌日の現地研修,私の講演にもお付き合いいただいた。石瀧先生が全幅の信頼を寄せられるのが頷ける人物である。

別府氏の博識と信念には圧倒された。政治学が専門というけれど,時代を見る独自の感性は人との出会いによって培われたものだろう。その根底には,歴代の政治学者を自分の思考で読み解いてきた蓄積がある。丸山真男を語る論調にその一端を見た思いがする。

久しぶりの講演,しかも「渋染一揆」に関する内容であった。
教科書の部落史に関係する記述が大幅に削減され続けている現状がある。来年度から使用される新しい教科書も大幅に内容が増えたにも関わらず,部落史に関する記述はあまり変化は見られない。最近の研究成果が十分に反映されているとも思えない。どちらかといえば,最近の路線である本文ではなく,「コラム」や「特集ページ」扱いでの記述で,内容も不十分である。


溜まっていたコピーの山を仕分けすることができたが,それらを読み込んでまとめることを考えると気が遠くなる。時間がほしいことを実感する。

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2011年05月29日

『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』再読

昨年末,本書を読み,その若干の感想を書いたが,今あらためて再読している。


私は,いくつかのテーマを平行して考えることは苦手で,どちらかといえば一つのテーマを深く掘り下げることを好むが,いつ頃からか2〜3のテーマを常に抱えながら,文献を読んだり論考をすすめたりしている。今も,次のテーマを考えつつ日々の本務を過ごしている。

黒川みどり氏の『近代部落史』に触発されて,黒川氏の論考をもとに「近代部落史」の概観をまとめている。時系列に黒川氏による時代背景の考察をもとにしながら,ノートに整理しているが,時代の進展との関連性や部落解放運動の変遷がつかめて興味深い。

これも黒川氏の影響だろうが,あまり興味のなかった戦後の部落解放運動もテーマとして考え始めている。買ったままで読んでいなかった『戦後部落解放論争史』(師岡佑行)全5巻を通読している。大部な書であり,引用の多さに圧倒されながらも,水平社が自然解消され,戦争を経て,戦後に新たに結成された部落解放運動の紆余曲折の歴史を概観できる本書は,最良のテキストと思っている。

そして,江戸幕末から明治初期の移行期を考えている。幕府と諸藩の解体,明治新政府の成立と近代化政策による大きな社会変動の中で,被差別民はどうなっていったのかを考えている。
そのテーマに別の視点を提示してくれたのが本書である。幕末から明治へと大きく社会が変化することに,直接のきっかけをあたえ,深く関わることになった外国との関係を考察していて興味は尽きない。


本書の論旨を簡略にまとめるならば,次のようになると思う。

幕府は「刑罰を,社会秩序を維持し権力を行使するための複雑な戦略の一環」として利用したが,「為政者への信望を損なうことなく機能し続け」させるために,実際の処刑役を被差別民に命じた。つまり,刑罰ももつ「社会秩序の維持」という側面では武士を,「悪行と残酷さ」という側面では被差別民を民衆に意識づけたのである。

…幕府が厳罰を使い続けながらも,「仁政」という基本イメージを崩さないようにするための方策があった。幕府は,厳罰について最も不快で最も目立つ事柄を処理する責任を,正式に制度化されていた「賤民」つまり「被差別民」の一団に負わせていたのである。

…幕府は,被差別民の非道な行為を阻止する存在となることで,自分たちは仁政を施しているのだと言い張ることができた。つまり,被差別民が非道な「屠者」となったのに対し,武士は慈悲深い為政者として生命を守る存在になったのだ。

本書の「解説」に真柴隆弘氏も次のように書いている。

幕府は畏怖されるばかりの恐怖の権力ではなく,慈悲にあふれたまさに親のような仁君としてのイメージ作りにも工夫を凝らした。…

…徳川幕府は恩赦や規則の手加減などによって「慈悲」を示すとともに,被差別民を刑罰の執行に携わらせることによって,残虐さのイメージを彼らに転移させることに成功する。

この点について具体的に書かれている部分を,少し長いが抜粋して引用する。

すでに江戸時代が始まる前から,被差別民は一部の刑罰の執行にかかわっていたが,それが全国に制度として広まっていくのは,江戸時代に入ってからのことである。実際,綱吉の時代には,幕府が命じる刑罰のほとんどすべての場面で被差別民が重要な役割を果たすようになっていた。…一部の刑罰では,被差別民は武士である役人の単なる手伝い役として働いた。たとえば斬首の場合がそうだ。斬首を実行するのは,公儀御様御用か,身分の低い打役同心である。首打役が罪人の首に刀を下ろす準備をする間,2〜3人の被差別民が首をきれいに打てるよう罪人を押さえる役目をする。首が打たれたら,罪人の体を前に押し出して首を下げ,首から流れる血が前もって掘っておいた穴に流れ落ちるようにする。打たれた生首を回収して洗うのも,処刑場を清掃して死体を処分するのも,被差別民の仕事だ。この種の仕事は,被差別民を,死の穢を扱うのに利用できる人々と見る旧時代の観念と合致している。しかし,江戸時代には,実際に執行する場面で被差別民が中心的役割を果たすようになった刑罰もある。たとえば磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業も含め,すべての仕事が被差別民の頭と,その部下によって執行された。

磔と火刑の二つと,斬首とでは,生み出される恐怖の度合いが天と地ほど違うのは明らかだと思うが,もう一つ,…斬首は原則として堀に囲まれた牢屋敷の敷地内で執行されたのに対し,磔と火刑は野外の刑場で行われた…。…処刑の瞬間を見に来た者が,武士ではなく被差別民が罪人の死体を切断する行為に携わっているところを目にしたというのは非常に重要である。さらにその後,切断された死体は晒されるのだが,そのときに近くには必ず被差別民の一団がいて,死体の番をし,最後には(衆人が見る中で)死体を磔柱から下ろして始末した。獄門を言い渡された晒し首の場合も同様だ。役人が牢屋敷の敷地内で首を切り落とすと,被差別民が生首を持ち,市中を回って刑場へ運び,晒している間中,その場に座って番をする。日本橋で生きたまま晒の刑に処せられた罪人の番も,処刑前に罪人を市中で引廻すのも,すべて被差別民の仕事である。つまり江戸時代には,刑罰を庶民の目に公開しなくてはならない場合,その場には必ず被差別民の姿があったのである。

こうして非常に見える形で被差別民を刑罰制度に携わらせたことで,武士は慈悲深いというイメージを,少なくとも二つの方法で提示し守ることができた。…武士は刑罰を命じ続けておきながら,その刑罰の最も恐ろしい側面から距離を置くことができた点が挙げられる。世間の目から見れば,武士政権である幕府の命令を直接実行しているのは武士ではなく,情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと思われていた身分の低い人々であった。…幕府は,秩序を押しつけて平和をもたらしたことで,この国を悪行と残酷さから救ったとされている。まさに,この悪行と残酷さの象徴とされたのが被差別民である。…さらに同時に,罰せられた死体の近くに被差別民の姿を常に置くことで,本当の「屠者」「屠膾之類」は被差別民だという見方を強化し,それによって,かえって各地を支配した武士たちが決して善政を敷いていたわけではないという事実から人々の目をそらすことができた。

…厳罰を実際に執行するのは被差別民だというイメージを民衆の中に広めていったことで,武士はかつての「殺人者」「屠者」というイメージを捨て,民衆を守る慈悲深い守護者という立場を新たに手にしたのであった。

確かに,武士政権が被差別民を政治支配に意図的に利用した面は事実である。
しかし,現在に続く部落差別の要因を武士によって意図的に仕組まれた巧妙な政策にのみ求めることが果たして妥当かどうかについては疑問が残る。
著者であるボツマンも「差別が広がる直接的要因の一つとなったことは間違いない」としつつも「江戸時代の被差別民を,自ら歴史に働きかけることができず,なすすべもなく幕府の方針の犠牲となった人々と単純に考えるのは間違いだろう」と述べている。そして,塚田孝氏の研究成果を援用して,次のように書いている。

被差別民も他の社会的集団と同じように,生活を守り権力を手にする戦いにのめり込んでいったと考える方が,はるかに適切だ。…江戸時代の被差別民たちは,幕府にとって重要な役務をいくつも実施するのを承知することで,身分の安全をある程度勝ち取ることができた。社会の中で,低いとはいえ正式な身分として認められ,問題や争いが起きたときは,忠実に役務を履行する見返りとして幕府に助けを求めることができたのである。

…幕府から重要な役務を行う責任を課せられた被差別民の集団および指導者は,特権を求めることができたし,幕府の後ろ盾を得て他の被差別民を配下に置くこともできた。

私も大旨において同感である。従来のように,被差別民を無抵抗で無力な,虐げられた存在とは考えていない。しかし,上記に引用した刑罰に携わった被差別民に関するボツマンの記述は誇大すぎるように思う。処刑や晒を行う被差別民に対するイメージは,現在に生きるボツマンの感覚・感性であって,当時の人々の感覚・感性ではない。

「磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業」「その刑罰の最も恐ろしい側面」「悪行と残酷さの象徴」などは,現代人の感覚である。刑罰や処刑に対する当時の人々のイメージも現代人とは異なるものであったと考える。

はたして,当時の人々が被差別民を「情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと」思っていただろうか。私には必ずしもそうであったとは思えないのだ。

確かに,戦乱のない太平の世が長く続いていたとはいえ,刀の携行や槍の所持などが認められていた生殺与奪の権限をもつ武士がおり,百姓や町人も刀や短刀など殺傷力のある武器を所持することができ,また身分の上下に伴う権利や権限の格差が日常において社会生活のあらゆる面に適用されていた社会である。しかも,当時の刑罰体系において死刑は,刑罰として当然であり,磔も晒も当然のこととして人々に認識されている社会である。
そのような社会にあって,行刑役に対する人々の意識は,ボツマンのいうようなイメージだったのだろうか。

残虐な刑罰を命じる武士よりも,執行する被差別民の方を「殺人者」「悪行と残酷さの象徴」と思うだろうか。武士に命じられた役務であることも,犯罪に対する処罰であることも理解している人々が刑罰を執行する被差別民に対して,はたしてボツマンが述べるように思うだろうか。私にはやや単純すぎる発想のように思えるのだが…。


ボツマンは,当時多くの人々が市中引廻しを見に集まり,「鈴ヶ森刑場」や「小塚原刑場」で行われる公開処刑を見に集まっていたことや,処刑後の死体や斬首された生首が街道沿いなど目に付きやすい場所に晒されたことを重要視する。
その光景を「身の毛もよだつ(絶対に忘れられない見世物)」と評しているが,これもまた彼の感覚であり,現代人の感覚である。


ボツマンは,江戸時代の刑罰の数を非常に多いと考えている。
彼は,幕府が厳罰主義により人々を支配していた証拠であると同時に,残酷な処刑と晒による恐怖を与えることで治安と社会秩序を維持していたと考えている。
そして,その執行を実際に担い,人々からの「視線」を一身に身に受けたのが被差別民である。

…江戸時代の刑罰について信頼できる統計資料は数少ないが,その一つによると,1862〜1865年の間だけでも江戸では磔が15回も行われたという。さらに,この4年間に10人の罪人が火刑に処され,毎年平均100人以上が斬首になっていた。これは,人口が当時の江戸とほぼ等しかった18世紀末ロンドンで絞首刑にされた人数の優に二倍を超える。

…引廻しにも,見物人に恐怖という形で権力を見せつけるという目的があった。さらに,大規模な行列が「特別な」出来事であったのに対し,どうやら引廻しは江戸町民の日常生活に近いものだったらしい。実際に,そう思えるほど回数が多い。江戸で引廻しになった罪人の数は,1862年が29人,1863年が16人,1864年が9人,1865年が17人で,年平均に直すと約18人だ。さらに,この4年間に生首が1年あたり30回ほど市中を通って刑場へ運ばれている。つまり江戸では,引廻しが年平均で50回程度行われていたことになる。これは,一週間に1回弱のペースである。

…敲は,棒で背中や臀部を50回または100回打つ刑で,これも軽犯罪者に科せられる重要な罰である。女性には適用されなかったが,江戸時代の刑罰の中で最も多く執行され,1862〜1865年には,毎年江戸で800〜1000人が敲を受けた。

…原則として,他人の命を奪った者は「下手人」という名の特別な死刑で罰せられることになっていた。…下手人は江戸時代の死刑の中で最も軽いと見なされ,実際に執行されることは,きわめてまれであった。1862〜1865年の4年間で執行された死罪は285件程度だったのに対し,下手人が行われたのは,わずか二回にすぎない。

ボツマンは,自説の根拠を平松義郎「幕末期における犯罪と刑罰の実態」(『近世刑事訴訟法の研究』)及び『旧事諮問録』に求めている。

しかし,この史料は江戸時代の一時期,幕末の4年間の統計資料であって,江戸時代すべてに当てはまるはずもない。江戸時代は約270年間の長きにわたっている。それを幕末のわずか4年間,しかも尊王攘夷運動から倒幕運動へと世の中が大混乱している時期である。江戸時代の中期から後期にかけての安定期と比べて,時代背景・社会情勢がまったく異なっているのだ。

ボツマンは,時代背景を考慮して言及していない。時代背景が異なれば,人々の意識も社会意識も異なるのは当然である。

最後に,ボツマンは巻末に膨大な参考文献を挙げているが,石井良助『江戸の刑罰』よりの孫引き的な記述が多く,それに基づいていると思う。

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2011年05月19日

『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』

多くの史料や書籍を読み深めていくとき,著者の分析や考察のレトリックに誤魔化されて本質を見失ってしまうことがある。このレトリックの罠にはまらないようにするためには自分の考えを構築させながら読み込んでいく必要がある。
論理の破綻が容易に見えるような文章,資料の曲解,歪曲した論法などは論外であるが,厳密な構成による論理に対しては注意深く検証しなければ,翻弄されてしまう。

自己主張の強い独断的な論法は自己矛盾が散見しており,参考にもならない。そのような文章ほど,自己正当化のために他者の主張や意見を否定ばかりして,しかも紋切り型のワンパターンな批判を繰り返すだけで,ただの「イチャモン」の域を出ない。

だが逆に,多くの資料を徹底的に分析し,多角的な視点と論理の一貫性により考察した「論文」や「論考」は読み応えがある。まるで推理小説を読み解くようなおもしろさがある。誰だったか忘れたが,難解な哲学書であっても推理小説のおもしろさがある,それは推敲に推敲を重ねて練り上げた文章だからだと言っていたが,まったく同感だ。


偶然にネットで見つけて注文したのが,本書である。従来の部落史とは異なる視点から書かれている論考で,読んでみたいと思った。

本書は「論文」の体裁をとっているからだろうが,まず論証のための「引用」が非常に多い。外国人の「論文」は根拠を提示することが厳密さの証明であることから,とにかく参考文献・引用文献の原注が多い。本書も,これでもかというほど原注が細かい。しかし,本書の5分の1にもなる参考文献と原注は,それだけでも十分に参考になるし,考察のヒントをあたえてくれる。

ただし,「検証」という面では一貫性に疑問を感じる点もある。テーマの論証が多岐に渡っているからかもしれないが,引用資料の比較検証が不十分のままに論拠としている感じがする。例えば,被差別民と行刑役については,それだけで相当の文献があるはずだが,一部しか参考・引用としていなかったり,被差別民の生活や支配形態は地方によって異なる面を追究していなかったりする。


『血塗られた慈悲,笞打つ帝国−江戸から明治へ,刑罰はいかに権力を変えたのか?』
(Punishment and Power in the Making of Modern Japan )
ダニエル・V・ボツマン(Daniel V.Botsman)

本書は,刑罰と監獄について,江戸から明治まで,各時代の現実に即して丁寧に検討した歴史研究である。刑罰から社会秩序の構築を考察しようとする方法論などミシェル・フーコーの「監獄の誕生」からの影響は明らかであるが,それだけでない。江戸時代の社会秩序の維持に身分制度が巧妙に利用されている点を解明している。つまり,社会秩序の維持に被差別民の役割を不可欠なものとして位置づける一方で,自らは刑罰に直接手を下すことなく,むしろ「慈悲」により支配しようとする重層的な社会構造を構築してきた江戸幕府の意図を読み取っている点で興味深い。

武士が直接に手を下さず,なぜ被差別民にさせたのか。
それは,「刑罰を効果的に晒すのは確かに有益だが,名君という武士のイメージを守るためには,慈悲を生かした様々な戦略とのバランス」が重要だからである。残虐性と慈悲といった両面が徳川幕府の政治政策としてあり,名君がむごさを与えている印象を薄れさせるためには,被差別民の役目が重要だったのだ。刑罰に関わる作業や引き回しやさらし首の番人のような役は,被差別民が担っていた。そして,刑罰をゆるめる「慈悲」の沙汰は武士の権限であった。

治安維持の側面から被差別民の役割を考察することは重要であると思っていたので,本書を読みながら少し考えてみたいと思っている。
『日本近世行刑史稿』はぜひとも読んでみたいと思った。


日米修好通商条約の「治外法権」(領事裁判権)が,江戸時代の拷問・刑罰制度に対する欧米列強の恐怖による要求項目であったこと,それゆえ条約改正の絶対条件が日本の刑罰制度の改革であったこと,この歴史的背景と経緯を詳しくまとめているのが本書である。

日本の過酷な刑罰制度は,ペリー来航以前からヨーロッパに十分に(誇張されて)伝わっていた。日本を含む極東を旅した多くの西洋人が故国に書き送った報告書や旅行記に,戦国時代末期から江戸時代を通じての「過酷で残虐な刑罰」が紹介されていた。

1663年に出版されたフランソワ・カロンおよびヨースト・スホーテン著『日本,シャム王国誌』の英訳には,「彼らの刑罰は,火あぶり,焼殺,磔と逆磔,牛四頭を使った牛裂き,および油や湯での釜煎りである」と列挙されている。…他の文献には,ごく些細な窃盗でも死刑の対象になると記されているし,さらに「腹部を切り開く」ことによる「合法的自殺」という明らかに非キリスト教的な習慣がほぼ例外なく取り上げられている。

旅行記を読んだモンテスキューも『法の精神』で江戸時代の日本の刑罰を取り上げている。

さらに,幕末から明治初年に日本を訪問した多くの外国人は「攘夷」に遭遇し,日本の「血なまぐさい刑罰」を目撃することになる。「攘夷」を実行した日本人の処刑の場面を見た彼らは,その報告を欧米諸国に頻繁に届けた。

私も幕末期の写真集を数冊持っているが,清水清次の処刑図やさらし首などは残酷さを感じさせるに十分だ。
また,岡山藩の藩兵が神戸郊外で起こした外国人発砲事件では,責任者の切腹を欧米外交官の目の前で行っている。(
神戸事件

さらに,その数日後にはフランス水兵の一団に発砲する事件があり,土佐藩士20人が切腹を命じられている。(死亡したフランス水兵11名と同数が切腹後は,フランス外交官は処刑を中止させている)

欧米列強,中でもイギリスは,日本が平等な条約を結ぶに足りるだけの文明国であることを立証できない限り,現在の条約を改めるのに同意する気のないことが,日本側にわかってきたのだ。そうなると,問題になってくるのは刑罰と司法制度である。白人が磔になったり切腹を強要されたりする不安が残る限り,治外法権は絶対に撤廃できない。


本書で気になったのは,1章から4章までは江戸時代の刑罰制度に関連して被差別民の役割と存在理由を考察しているが,5章から7章の幕末から明治中期にかけて日本の刑罰制度の改革を考察している中で,被差別民がどのようになったかについて分析も言及もなされていないことだ。

拷問・刑罰(処刑)の実行役であった被差別民が,すべての責任を負わされて解雇されたと考えるのは短絡的である。拷問や処刑,(晒しの)見張り役,引き回し役を行う被差別民に外国人の嫌悪を集中させ,彼らを賤視の対象にすることで,政府は外国人の目をそらそうとしたと考えるのも早計と思う。それほど単純に,政府の思惑どおりに,外国人のみならず民衆までもが,それまでと異なった認識に早々となることができたとは思えない。
また,被差別民がそのまま警察官になったとも思えない。中には,番非人などが警察官になるケースもあっただろうが,ほとんどは下級武士が任命されている。

幕末から明治にかけての動乱期をもう一度詳しく分析・検証してみる必要がある。
大政奉還により江戸幕府の支配機構が崩壊した江戸で,各藩の大名が江戸屋敷を引き上げてそれぞれの領国にもどった後,江戸の町はどうなっただろうか。町人たちの生活はどうなっただろうか。そして,本書で治安維持の一端を担った被差別民はどうなっただろう。

私は,解放令の理由や背景などから考察すべきであると考えている。

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2011年03月22日

友人の論文

水本正人さんから『部落解放研究』(191号)に掲載された論文が送られてきた。

【伊予小松藩における「かわた」の尋ね方・召捕り・留置について】と題された,最近の水本さんが研究テーマとして取り組んでおられる『伊予小松藩会所日記』に記述された被差別民に関する史料分析の成果をまとめられた論考である。

不義理ばかりの私とちがって,水本さんの律儀さと真摯さは敬服に値する。彼の人間性を象徴している。
それは,研究成果にも表れている。史料を丹念に読み解き,分類しながら整理し,分析と考察を行っていく。水本さんならではの仕事だと思う。

本論文の内容については,後日コメントをしたいと思っているので,ここでは書かない。ただ,愛媛の部落史に関しては私もそれなりに史料を読み考察もしてきたので,水本さんが明らかにしようとしていることの重要性は十分にわかっている。

だが,四国の各藩には,それぞれ独特の支配体制であったと考えている。独自性と共通性を解明する必要がある。


着実に自分の研究を深め,その成果をまとめている水本さんに比べて,自分の不甲斐なさを痛感する。私もくだらないことに惑わされず,自分のすべき事に専念しないといけないと,諭された気がする。

水本さんの旺盛な研究心,精力的な研究活動,すべての方々から学ぼうとする真摯な研究姿勢,他者に対する謙虚さ,これらが彼の地道で着実な研究を支え,確実な成果を生み出しているのだと思う。

私も水本さんを見習い,今年は自分の研究成果をまとめたいと思う。

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2010年12月03日

水平社と西光万吉

幾度となく読み返してきた『水平社宣言』である。「水平社」に関する授業をどれほど繰り返してきただろう。同和教育・人権教育として,道徳・社会科の授業として教材化してきたことだろう。その度に,新たに出版された関連書や資料を探したり,読んでいなかった書物や論文,以前に読んだ資料などを読み返したりして構成や配付資料を作り直してきた。だが,一度として満足したことはなかった。授業後に何か物足りなさを感じてしまう。生徒の反応や感想に手応えを感じても,一抹の不安を覚えてしまう。

それほどに『水平社宣言』は心に重い。崇高すぎる理念,魂を揺さぶる感動が,読むたびに沸き起こってくる。心が共鳴して,身体の芯から燃え上がるものを体感する。


『至高の人 西光万吉』(宮橋國臣)を読んでいる。随分と以前に買って,一度は読んだはずだが,なぜか記憶に残っていない。書棚の「水平社」関連の中に埋もれてしまっていた。開いてみると,書き込みやラインが引いてある。教材ノートにも本文から引用してあった。にもかかわらず,私の記憶から抜け落ちていた。

改めて読みながら,その時の記憶が蘇ってくるのがわかる。そして,新たな発見と共感がある。

人生と同じで読書もまた,その時々で意味するものも異なってくる。本当に「無意味・無駄」であれば,このような感覚はないだろう。まして不快感しか残らなければ,経年後も同じである。これも人生における出会いと同じで,二度と関わりたくもない思いだけで忘却されることになる。
「忘却」すべきことは,その程度のことでしかない。


本書をじっくりと読みながら,今あらためて水平社と水平社創立に関わった人々について学んでいる。

本書の特徴は,徹底した「聞き取り」である。今は亡き人々から直接に多くの「証言」を得て,それを検証しながら水平社の歴史を明らかにしている。

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2010年11月20日

Selbstdenken

先日,本屋で偶然に手に取り,懐かしさを覚えて買ったのが,熊野純彦編著『日本哲学小史』(中公新書)である。

本書は二部構成となっていて,第一部は「近代日本哲学の展望−『京都学派』を中心にして−」と題した熊野氏による明治以後の日本哲学史の概観である。
第二部は,その歴史を形成した哲学者の代表的論文20篇を選び,気鋭の研究者がそれに関して論じている。

私が哲学的な書物に最初に触れたのは,確か『日本の思想家』(朝日新聞社)であったと記憶している。西田幾多郎の名は知っていたが,井上哲次郎の名は初めて知った。彼ら日本を代表する思想家について,その人生と主要著書の概要,思想の概説を簡潔にまとめた3分冊であった。彼ら一人ひとりが独自の思索に辿り着くまでの人生がおもしろく,同様の本,たとえば清水書院の「人と思想シリーズ」などは安価なので興味のある思想家への入門書として最適であり,大学受験に大いに役立った。

私は,歴史に最も興味があるからだと思うが,哲学そのものより哲学史に心惹かれ,思想よりも思想史や社会思想史に興味をもってきた。初めて買った哲学関係の洋書も,Bertrand Russell の『A History of Western Philosophy』であった。高校時代の恩師に紹介された日本語訳の本がおもしろくて原書を読みたくなったからだ。


ここ数日,風邪を引いてしまい,最悪の体調で,先日は終日ベッドの中で過ごし,本書を読了することができた。

なぜ,哲学や哲学史の本はストレスなく読むことができるのだろう。本書など,興味と面白さで読み進むことができ,時間すら忘れてしまっていた。興味や関心のままに,内容を受け入れるからだろうか。

本書の中にもあった言葉に,“Selbstdenken”(自分で考えること)がある。西田幾多郎ら京都学派を表現した言葉として知られている。
この言葉をネットで検索すると,ショウペンハウエルの著書に関連した文章がヒットする。その中の一つに『愛牛庵』
「漢詩文」があった。含蓄あるある言葉を紹介されていたので,勝手ながら引用させていただいた。

Fremde, gelesene Gedanken sind die Überbleibsel eines fremden Mahles, die abgelegten Kleider eines fremden Gastes.
(Schopenhauer (Die Welt als Wille und Vorstellung) Parerga und Paralipomena, ch.22, §259 "Selbstdenken")

書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、知らない客が脱ぎ棄てた着物に過ぎぬ
(ショウペンハウエル『意思と表象としての世界』「付録と補遺」の22章§259「思索」)

「思索」とは「自分で考えること」である。この自明のことが実は非常にむずかしい。ショウペンハウエルの言うように,他人の考えを模倣してしまったり二番煎じになってしまったり,単なる「解釈」になってしまったりする。独創的な思考は簡単には為し得ない。

しかし,先人達の思索の足跡を丹念に辿りながら,忠実な解釈とともに思索を繰り返すことで独自の思想を生み出すことはできる。
「独自の解釈」「独自の思索」と言いながら,その実は,自分勝手な解釈であったり,独断と偏見であったりするよりは遙かにましである。何より他者の主張や意見を正当に解釈すらできず,見当外れの自己流解釈に基づいた的外れな批判に終始する「思索」など本末転倒である。

ショウペンハウエルは,大学時代,文庫本の『読書について』『自殺について』などを読んで,そのアフォリズム的文章に興味を惹かれた。彼のpessimisticな論考と,その格言的な言葉の数々は,若かった私の思考に刺激を与えるに十分であった。当時の断片的ノートには彼の言葉が書き残されている。

今思うのは,ショウペンハウエルもまた哲学者の一人であるということだ。一人二人の学者の言説によって他者を批判すること,非難の根拠に利用することの愚かさを思う。


恩師の友人は,牧師の本業のみに真摯に向き合い,重い心臓病を患いながら,それこそ生命をかけての伝道と研究の日々であった。大学時代に一度しか訪ねたことはないが,万巻の書物に囲まれ,ギリシャ語・ラテン語,さらにはヘブライ語を駆使して『聖書』に取り組んでいた。矢内原忠雄の『聖書講義』など戴いた数冊の本は今も私の書斎にあって,時折開いては,その時に教えられたことを思い出す。
牧師館のわずかな書斎の四方に置かれた書棚はキリスト教の専門書でいっぱいで,廊下や床にまで積み上げられた書物に圧倒され,若い私の生意気な質問に対して,それらの中から関係する本を取り出してわかりやすく説明してくれた。牧師とはこれほどまでに真摯にキリスト教について研究するのかと思ったものだ。

大学時代の一時期,友人に誘われて教会に通ったことがある。横浜の上星川教会であるが,日曜日毎の礼拝もまた新鮮な学びの場であった。『聖書』をこの時ほど真剣に読み耽ったことはない。友人たちと一夏かけて『旧約聖書』の輪読会をしたのも懐かしい思い出だ。
教員となってから長島愛生園の対岸にあった虫明伝道所にも通ったことがある。小さな伝道所で,時には牧師夫妻と私だけの礼拝もあり,夜遅くまでいろいろと教えていただいたこともある。
しかし,なぜか結局は入信しなかった。仏教,特に禅宗にも興味をもって,禅寺で只管打坐の修行もしたが,キリスト教ほど心が動かなかった。宗教的といえば,宗教的な人間かもしれないし,逆に最も宗教から遠い存在なのかもしれない。

高校時代,ニヒリズムに傾倒したことが大きく影響しているのかもしれない。そして今は,入信しなくてよかったとさえ思っている。これ以上,キリスト教の牧師に失望したくないからだ。かつて出会った素晴らしい牧師たちから受けた多くの示唆や,彼らが信仰によって培ってきた人間性を信頼したいからだ。

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2010年10月10日

『玄洋社−封印された実像』(石瀧豊美)

昨日,石瀧先生から新刊が届いた。

『玄洋社−封印された実像』(海鳥社)

以前に刊行の案内をいただき,予約していた本だが刊行が遅れたらしく,実はすっかり忘れていた。丁重なお詫びと近況が書かれた添書とともに,彼が執筆した文章が掲載されている福岡県人権研究所紀要『リベラシオン』の近刊数冊が同封されていた。いつもながらの気遣いに心から感謝する。

石瀧先生との出会いも随分と以前になるが,実際に福岡でお会いする前から,そして今に続くまで,多くの刺激と教示をいただいている。部落史の研究者の中で,私が最も影響を受け,私の認識や見方,考えに最も近い理論を提示してくれているのが石瀧先生である。私の部落史研究・部落史学習を理論的に支えてくれていると言っても過言ではない。


石瀧先生のフィールドは広い。部落史だけでなく近世・近代の歴史を網羅する。

本書の内容についても一応はブログで読んでいたが,実は私は玄洋社も頭山満も,その名前と簡単な内容,それこそ日本史の授業で習う程度に近代史の通史を加えたくらいしか知らなかった。正直に書けば,それほどの興味もなかったので,史料に基づいて実証を積み重ねて研究される先生のいつもの姿勢に敬服しながらも,本気で読んではいなかった。玄洋社や頭山満が日本近代史においてどのような位相にあるのか,それさえも考えようとはしていなかった。

大学時代,本書でも批判が展開されているが,ハーバート・ノーマンの「日本政治の封建的背景」を読んだことは覚えているが,その最終章で福岡玄洋社が論じられていることは忘れていて,本棚の奥から取り出して確認したほどだ。だから,私の理解は国家主義結社という程度のものだ。

本書は大部である。すぐに一読して感想を述べることができる代物ではない。時間が許すときに,近代史を概観しながら,じっくりと読みたいと思っている。

本書のように,地域史・民衆史の視点から掘り起こして史実を再認識する石瀧先生の姿勢が私は好きだ。その姿勢が部落史研究にも貫徹していて,だから史実が内包している隠された真実を描き出せるのだと思っている。

石瀧先生の著書に関しては「部落解放研究」(169号)に掲載されている上杉聰氏の書評がわかりやすい。私も精読させてもらい,多くの示唆をもらっている論文集である『筑前竹槍一揆の研究』に関する書評であるが,石瀧先生の仕事の重要性を端的にまとめている。(社団法人部落解放・人権研究所のHP内「部落解放研究」

上杉氏の問題点の指摘に関しては疑問もある。
民衆が解放令反対一揆に走った意識や行動の理由(歴史的背景)は,私にとっても最大の関心事であり,研究の核心であるが,それは一様ではないと思っている。同様に,渋染一揆においても,その行動に至った理由は判然としていない。
石瀧先生の同書も言及はしているが完全とは本人も考えていないだろうし,今後の研究課題と思っているはずだ。石瀧先生がブログで展開されている「横田徐翁日記」の分析と考察などを読むと,当時の民衆の意識の集約であったと思う。

私としても,本書や上杉氏の関連書を参考にしながら,できるだけ早く「明六一揆」に関する論考をまとめたいと思っている。

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2010年10月02日

教科書記述の欠落

『貧民の帝都』(塩見鮮一郎)を再読している。この本は,私にとって「目から鱗」の書でもあった。

毎日,教科書を中心に教えていると,自らの歴史認識が教科書の歴史に限定され,その範囲も内容も非常に狭いものになってしまいがちだ。その弊害をなくすために,できるだけ教科書に記載されている史実の背景や内容を専門書などで調べたり,歴史関係の書籍を読んだりして,自らの歴史認識や歴史観の内容に広がりと深まりをもつように務めている。

だが,「日本の歴史」など全集化・シリーズ化された通史の多くは,従来の政治史による時代区分で編集されており,時代と時代の間,移行期に関する記述は詳しくはない。
特に教科書は,時代区分が明確すぎて,明治時代になると江戸時代の全てが変わってしまったかのような記述である。まるで江戸時代の人間が明治時代になると皆死んでしまい,明治時代の人間が新しく登場するかのような錯覚を生じる。
明治の時代を切り拓いたのは江戸時代の人間であり,江戸時代のイデオロギーは明治になっても人々の中に生きており,彼らの生活や行動の原理,生き方や在り方を規定していたはずである。社会や経済の変容に対して,人間の意識を規定するイデオロギーの進展は緩やかである。

私は,ある意味でマルクスの歴史観(唯物史観)を認めているが,ウェーバーがマルクスを批判したように,人間の歴史を経済的土台から導き出されるとする単一の因果系列のみから説明することには賛成できない。

私の歴史観は,ウェーバーに近いかもしれない。なぜなら,「土台と上部構造の相互作用」が重要と考えているからだ。すなわち,ウェーバーは,文化諸領域のもつ「固有の法則性」を重要と考え、それら諸領域における独自の動きが経済の動きを制約するという社会現象の多元的な連関を捉えようとしている。この点が私の考えと同じである。


徳川慶喜が大政奉還を行い,江戸城を明け渡して江戸時代が終わった後,江戸の町はどうなっただろうか。教科書には何の言及もなく,明治維新による政治改革が説明されていく。まるで江戸時代から明治時代に政治体制が移行したことで,すべての社会状況や民衆の生活さえも移行したような印象を受けてしまう。江戸の町は何事もなかったかのようであり,明治政府のよる制度改革が着実に行われ,民衆が受け入れていったかのように思わされる。
だが,事実はちがう。大混乱が江戸の町を襲ったのだ。

…大名や旗本が屋敷を捨てて逃げていく。…町人までもが家財道具を大八車や牛車に山とつんで市内から脱出する。

百万人の江戸は半分になり,都市機能は完全に破壊された。給金も支払われなくなり,日常の物資の運搬もままならない。…通りという通りには紙くずが舞い,くさった野菜がちらばり,猫の死骸がころがる。馬の糞をひろう者もいなくなった。堀には死体がゴミに取りかこまれてぷかぷかと流れている。おびただしいカラスが初夏の空に舞った。

…江戸城が官軍に明けわたされるが,しばらくはそのまま放置されていた。とてつもなくおおきな「空き家」が江戸の中央に誕生したわけだ。

江戸の大部分を占めていた大名屋敷や旗本屋敷が「空き家」となったのだ。大名に従ってほとんどの武士が領国にもどった。彼らがいなくなったことで,今まで日常生活で消費した金銭は商人や町人に入らなくなった。経済そのものが成り立たなくなった。

想像すれば,誰もが気づくことだが,教科書記述に慣らされた人間には思いも寄らないことだ。教科書は政治史中心の歴史である。社会史・民衆史の視点が欠落している。

本書は,教科書記述に欠落している史実を補っている。


私は,ハンセン病史を調べていて,光田健輔が最初に勤め,隔離室である回春病室を設置して本格的にハンセン病医療に従事するきっかけとなった「養育院」に興味をもった。光田の回想録『愛生園日記』にも「養育院時代」という一文があり,養育院について述べている。

本書は「養育院」の歴史を辿りながら,最底辺に生きる困窮者と彼らを明治政府がどのように処遇していったかを描き出している。それは,江戸時代の穢多・非人身分の解体の歴史でもある。江戸から明治の移行期,彼らが時代に翻弄された史実こそ私の関心事である。

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2010年09月21日

取材の先に

ここ数週間,『週刊ポスト』に連載されている高山文彦氏の「糺弾」を毎回欠かさず読んできた。

週刊誌での連載のせいか,それとも「取材」という性格上のせいか,ただ事件に関わる周囲の動向と経緯が,関係者への取材に従って書かれている。まだ序章なのだろうが,関係者へのインタビューが先行して,何を描きたいかがまだ見えてこない。

先日出版された『部落差別をこえて』の読後にも感じたことだが,何を求めての取材であり,何を語りたいのかがわかりにくい。さまざまな立場で「部落問題の解決に関わっている」ことはわかるが,紹介記事以上が見えない。ルポルタージュというのであれば,もっと突っ込んだ内容であってほしかった。取材とインタビューをそのまま記事にしている感じがする。表層のみの記事で深みを感じられなかった。
「部落差別」「部落問題」というテーマを,現在という断面で切り取ってさまざまな取組を紹介して,それで何を伝えたいのか,私には「それだけ…」という物足りなさがある。
実は,この連載にも同様の感想をもっている。


高山氏の本はほとんど読んできた。『火花 北条民雄の生涯』を最初に読んだが,よく調べ,当時のハンセン病患者を取り巻く状況を背景に,彼の悲哀と苦悩,彼の情念を鋭く描いている。松本治一郎を描いた『水平記』も,部落解放に賭けた彼の人生を見事に表現している。

本連載もこれから本質へと向かうであろうことはわかるのだが,今はまだ取材の域を出ていないからだろうが,私には「取材の先」が見えない不満がある。


本号は,「差別ハガキ」を受けた部落出身の教師に焦点を当てての取材記事である。彼の「痛苦」を通して,部落差別がいかに人権を侵害するものであるかを浮かび上がらそうとしている。そのことはよくわかる。

当事者である「ムラ(部落)の者」と「鈍感な部落外の人びと」の差異を,部落の社会的歴史的背景が彼らの心情に及ぼしてきた計り知れない影響から描いている。部落問題の解決が進展しない要因である「他人事」「問題意識の浅さ」をうまく表現している。

この「差異」を多面的・多角的に明らかにしようとするのであれば,私はそれだけでも十分に興味を持つ。ただ,「差異」を強調することで「被差別の聖化」を肯定するのは反対である。「被差別の立場」の特権のように「糺弾」を安易に容認することにも反対である。
「仲間意識」が「排除・排斥」に流れることを,私は危惧するからである。


引用している「差別ハガキ」の文面は,読む者の誰であっても,その理不尽な内容に嫌悪感と怒りをもつだろう。高山氏も「書き写しているだけで反吐が出そうになる」と書いているが,同感である。

一面識もない人間から数年にわたって事実無根の虚偽や誹謗中傷を書かれ続けている私にとって,こうしたことがどれほど腹立たしく,それこそ「反吐が出そう」になるほどの怒りを感じるものかは実感としてわかる。ネット上の「愉快犯」に対応するのは,法的措置しかない現実に空しさを覚える。

ネットという「顔の見えない社会」が無法地帯と化している現状においては,同種の人権侵害は今後も蔓延していくだろう。
まるで道路沿いに投げ捨てられる「ゴミ」と同じである。人の迷惑顧みずである。通勤に利用しているバイパス,路側帯に投げ捨てられたコンビニの袋に入った弁当柄があちらこちらに積み重なっている。この処理費用だけで年間数百万円とも聞く。

自分さえよければそれでいいと,他人の痛みを思いやれなくなって久しい現代社会において,理不尽な仕打ちをうけて苦しんでいる隣人を助けてやりたいと手を差し伸べる人間らしい勇気を,私は彼らのなかに見る。

この一文には,同感もするが,違和感もある。しかし,確実に言えることは,他者の人権を尊重するかしないかの二極分化が個人の意識レベルで進行していることだ。見えなければ,わからなければ,捕まらなければ,という規範意識の低さが人を傷つけている。

高山氏は,この連載で何を描き出そうとしているのか,読み続けてみたいと思う。

posted by 藤田孝志 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

『部落差別をこえて』

本書は,元朝日新聞記者臼井敏男さんが,朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」に連載した「差別を越えて」に加筆したものである。
本書の表紙裏に書かれた次の言葉が,本書の目的を端的に示している。

全国水平社創立から88年,33年間にわたる同和対策事業が終わって8年。でもいまだに消えない差別のまなざし。

そこに生きる人たちは,それとどう向き合って,どんな思いでいるのか。現在の被差別部落の姿と,取り巻く状況を,33人の人たちが語る。―差別の消える日のために。

この言葉,臼井氏だけでなく部落問題に関わってきた多くの人間がそれぞれの立場から最も知りたい現状であり,課題である。私も同じ思いだ。

本書はルポルタージュであり,新書という僅かの紙面である以上,詳しい分析や考察が加えられてはいない。淡々と取材が記事となっている。だが,むしろこの方が「現状」をよくあらわしている。


私が本書を通読して感じたのは,次の2点である。

1点目は,画一化から多様化である。
かつては同和教育も解放運動も「組織化」の傾向が強かった。全国組織の意向に従う下部組織が都道府県から市町村の単位に張り巡らされた。ネットワークや連携の深まりと広がり,共通認識と共通行動(取組・実践)等々では大きな力となって拡大・発展した。だが,組織が巨大化すれば,利権も動く,権力も生まれる。上意下達が強まれば,独自性や個性が弱くなり,強制的な義務化が重圧となる。マニュアルとパターンに縛られ,ただノルマをこなしていく中で,意欲・意義が失われ,組織や取組の形骸化も進む。

同和対策関係の法が失効し,同和対策事業が終わり,後ろ盾がなくなると同時に利権から生じた不祥事が発覚し,同和教育が人権教育に移行する中で,組織の強制力が弱まった。そして,ある意味の「自由」が生まれた。プラスの面もマイナスの面も含んだ「自由」であるが,とにかく強制されないという,選択できるという「自由」である。

その結果,急速に「組織」は弱体化した。解体された「組織」もある。何より参加する人間,取り組む人間が急激に減少した。学校現場では,部落史・部落問題が学習されなくなった。研究会も縮小し,予算が大幅に削減され,活動が制約され,実践が姿を消した。何よりも教員全員が何らかの同和教育に関する校内外の研修を受けていた義務がなくなった。研修が格段に減った。

しかし反面,部落問題に心ある人間が残った。義務ではなく,強制でもなく,自主的に部落問題に関わり続けようとする人間が残った。
そして,自主的な組織が作られ,自主的な取組が生まれている。それは,各地の独自な取組であり,地域の実情に即した「多様性」を生かした取組である。

私は,方が切れた後には,水平社前夜のような各地に生まれた独自な自主的組織がこれからの部落解放の方向を築いていくだろうと思っていた。
本書を読み,全国各地での活動を知り,これでいいのだと思っている。

2点目は,差別―被差別の構造から共生の構造へのシフトである。
かつては部落か部落外か,差別者か被差別者か,という二律背反の論理に支配されていた。「差別をするかしないか」「被差別者の立場にあるかないか」等々の立場論や認識論に終始した解放論だったように思う。「どちらかの立場」以外を認めない論理に,私は違和感を持ち続けてきた。なぜなら,対立する命題から対立関係は解消できないからだ。

解決方法は「ちがい」を認め合うこと,『水平社宣言』の提起した「人間を尊敬する」こと以外にはない。

「〜でなければならない」「この解消方法以外にない」などの敵対主義や教条主義では絶対に解決などできない。組織の対立や理論の対立からは共生関係は生まれはしない。まして考えの異なる人間を認めることも尊敬することもできず,批判に終始するだけでは「共生」ではなく「排除」である。

残念ながら,未だに「立場」や「理論」に固執している人間もいる。しかし,本書で取材を受けた人たちはそれぞれが新たな一歩へと向かっているように感じた。
「その9 解放の道,歩みを止めない」に登場した各組織の代表者が目指す方向は同じであると感じた。部落の人々と部落外の人々が手をつないでいく,共生関係の構築,共生社会の実現である。

多様な部落史像があるように,多様な人間が多様な考えをもちながらも共生していく。他者を「排除」ではなく「尊敬」していくことで結びつく。


結局は,一人ひとりの人間観や社会観に帰着するのかもしれないが,他者の人権を認めることだと思う。個人の人権意識を育てる以外にない。

posted by 藤田孝志 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月04日

憲法14条

組坂繁之・高山文彦『対論 部落問題』を読みながら,いろいろと考えさせられた。知らないことも多くあり,いい勉強になった。特に,戦前・戦後の部落解放運動に関しては表面的・通史的な理解でしかなく,内部の動向など,もっと知る必要があると痛感した。

高山
たとえば憲法十四条と二十四条。…じつは松本治一郎が大きく関わっていたんですよね。

組坂
憲法十四条の「すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において差別されない」という条文の中の「社会的身分」という言葉ですね。これはもともとの条文ではソーシャルステータス=「社会的地位」だった。
ところが社会的地位というのは社長とか部長,課長とか,あるいは村長とか町長,そういったものですから,それでは意味がない。日本には依然として部落差別という身分差別が残っている。だから,ここは「社会的身分」にすべきだと,GHQ,当時の日本政府に松本先生たちがかけあって交渉し,文言を代えたということです。…
それから,憲法二十四条の「婚姻は,両性の合意のみに基づいて成立」の「のみ」も松本先生たちが主張して入れたものです。

このことを知っただけでも本書を読んだ意味があったと思う。

毎年,中学校三年生に「公民的分野」として,憲法の条文を通して基本的人権を教えている。十四条も平等権として,その人権思想の流れとしての歴史的背景とともに,各項目の意味内容を教えてきたし,暗唱もさせてきた。部落問題に関しては,「社会的身分」よりも「門地」を取り上げて解説し,生徒に考えさせてきた。しかし,「社会的身分」については,歴史的背景として理解させてきたが,松本治一郎の思いにまで至る説明はできていなかった。

確かに,「socialstatus」では「社会的地位」として受けとめてしまい,日本固有の身分制度を背景にもつ「部落問題」の解消にはつながらない。平等権としては不十分である。

いつもこの条文を教えながら考えることがある。それは,「社会的身分」の存在を認めるのかということだ。この条文にある項目,人種も信条も性別も,それ自体は否定されるものではない。それによって(理由・根拠にして)「差別されない」(差別してはならない)だけだ。つまり,人種や信条,門地も,その人間をあらわすものであり,いわばその人間の「徴」のようなものである。「社会的地位」も同様のものだ。だが,「社会的身分」は同じだろうか。「身分」は肯定されるものだろうか。「身分」と「平等」は相反するものではないのか。私はいつも疑問に思ってきた。

「社会的身分」によって(があっても)「差別されない」(差別がない)などということがありえるのだろうか。元来,「身分」は,他との差別を前提あるいは条件として成立するものではないのか。松本治一郎のいう「貴族あれば賤族あり」が「身分」のもつ差別性を端的に表している。だから私は,「社会的身分」は,この条文にそぐわないと思っていた。どことなく違和感を感じていた。

GHQの草案が,「socialstatus」(「社会的地位」)であれば,「差別されない」と結びつく。社長・部長…村長・町長…等々は,生まれもった「地位」ではない。本人の努力によって誰もが得ることが可能な社会的に公認(必要と)された「社会的地位」であり,それは職能でもある。

しかし,「身分」は,そのほとんどが世襲であり,身分の上の者から与えられるものであり,社会が承認するかどうかに関わらない。また,現代では職能ではない。そして何よりも時代がちがい。近代以降,いや現代は,近世の身分制度・身分制社会を否定することで成立している社会である。現代社会にあっては,「社会的身分」は存在してはならないものだと思う。

江戸時代においては,「身分」こそが学歴・財産などを越えて,あらゆるものより優先されるべき価値序列ではなかったか。また,身分相応という価値観・道徳観のもとで,生活から人生まで制限と統制を受けたのではないか。

学問的に,たとえば社会学・哲学における厳密な定義として「社会的地位」と「社会的身分」の意味内容と相違をもとに考察しているわけではなく,私の個人的な感覚であるから,まちがっているかもしれない。それについては,いつか考えてみたいと思っている。

松本治一郎によって「社会的地位」が「社会的身分」に変更されたことを知り,GHQの意図したものと,松本が意図したものとの根本的な違いをあらためて感じる。「社会的身分」という文言に託された松本の思いとは,部落問題の解決こそが「平等権」の意義であるとの信念であり,「社会的身分によって差別されない」ことが部落差別に長年苦しみ抜いてきた部落民の悲願であるとの確信であった。だが,松本の思いをわかったうえで,なお言うならば,私は「社会的身分」そのものを否定してほしかった。

憲法二十四条に「のみ」が付け加えられた意義は大きい。この文言は,差別の根拠となるあらゆるものを否定したのである。すなわち,「のみ」とは,その他一切のものを否定することを意味する。これこそが本当の「平等権」であると思う。

憲法にまつわる松本治一郎の話を知り,あらためて彼の偉大さを思う。

posted by 藤田孝志 at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月16日

『歴史のなかの「癩者」』

お盆休みに読もうと思って注文していた数冊の本が,遅れたようで今日届いた。

明日から2日間,3年ほど前に講演で訪ねた香美町の学習会メンバーが現地研修に来岡されるので,その案内をすることになっている。
明日は「渋染一揆」に関係する史跡を,翌日は「長島愛生園」を案内する。年々,現地研修の数も減ってきている。長島も,一時期のような見学者・研修者の数ほどではなくなってきているらしいが,渋染一揆の研修に比べれば多い。

先月は,友人の延先生が勤務校のヒューマン・ライツ部の生徒たちの合宿と現地研修を岡山で行い,その案内を引き受けた。生徒たちの純真さと真摯に向き合う心に,大きな感動をもらった。彼らのような生徒が育っているかぎり,必ず世の中は変わっていくと確信した。その一助が我々の仕事だと思う。


参考文献や引用文献から本を注文することが多いのだが,その約3分の1は期待はずれのことが多い。その中にあって,買ってよかったと思う本に出会うことが稀にある。
最近は,ハンセン病関係の本を収集しているが,その中で資料関係は別として,読み始めて,すぐに心惹かれて一気に読み終え,深い感動を味わった本が幾冊かある。

『ハンセン病とともに 心の壁を超える』(熊本日日新聞社編) 岩波書店
『開かれた扉 ハンセン病裁判を闘った人たち』 講談社

特に,上記の2冊には心動かされた。涙と怒りと喜びが,読み進むたびに,交互に同時に私の心の中に強い感情の発露となって湧き出した。これほどに感動した本と出会ったのは十数年ぶりだろう。
机上でしか考えず発言もしない人間とはちがって,彼らはまさに行動の中で,人と共に闘う中で,確実に何かを成し遂げようとした。人と連帯し,人と共闘し,世の中を変えようと行動した。

丸山真男だと記憶しているが,彼は日本の学者を表して「タコ壺の中から発言する」と批判した。自らは外に出て闘わず,攻撃から身を守る「(タコ)壺」に隠れて墨を吐く(批判する)ばかりだ,という意味だろうか。

上記に登場する学者・研究者・弁護士・ハンセン病回復者・新聞記者たちは,常に行動する。堂々と前面に出て闘う。私は,彼らのその勇気を讃えたい。そして,それを教育の現場に生かしたいと思う。


今回届いた中の一冊である『歴史のなかの「癩者」』も,私が求めていたテーマに合致した本である。
明日の準備は終えていたので,昼頃に届いた本書を早々に読み始めた。

…歴史的呼称とはいえ「癩者」という表記をそのまま使用することには,ためらいもあった。なぜならば,「癩」という語にこそ強烈な差別・偏見が凝縮しているからである。しかし,あえて,この語を使用し,本のタイトルにもした。差別の現実を覆い隠すことなく,その歴史と現実を直視するためである。

本書はハンセン病患者への差別の歴史を明らかにするものである。差別は古代から存在した。しかし,古代からの差別がそのまま継承され現代にまで至っているわけではない。差別には,それを規定したその時代の歴史的背景があるはずである。近年,部落差別の原因をめぐって,それを超歴史的に解明しようとする傾向がある。たしかに部落差別の意識には古代からの「けがれ」観も影響している。しかし,それをそのまま近現代の部落差別に結び付けることは歴史学を無視した暴論である。あるいは,衛生問題への関心が強まり,近世の民衆のコレラへの恐怖観をそのまま近代に持ちこもうとするような研究もある。こうした研究は,国家を忘れた歴史観に基づくものであり,そこには,興味本位かつ,学問の目的を単に自らの知的好奇心を満たすことのみに置く姿勢が明瞭である。社会の矛盾を解決し,不合理な社会関係を変革していこうとする意識を欠落させている。…ハンセン病患者への差別を国家が扇動した象徴としての「らい予防法」の廃止を見据えながら,法律が廃止される今こそ,歴史のなかにハンセン病患者の存在を深く刻み込んでおかなければならないという確信のもとに,古代から現代までの日本の歴史のなかで,ハンセン病患者への差別がどう形成され,どう変容してきたかを追究した。

(同書 「序」より)

引用したこの一文を読んだだけで,私が求めていた「視点」と内容であることを直感する。この「視点」に関しては,部落問題・部落史を研究テーマとして試行錯誤の中で辿り着いた現時点での私自身の考えに最も近く,賛同する。つまり,その時代における歴史的背景を重視する視点である。そして,何よりも「社会の矛盾を解決し,不合理な社会関係を変革していこうとする意識」を研究の立場におく点は,まったく同感である。

私は自分の考察や論考に示唆をあたえてくれる研究に関しては貪欲に吸収していくが,関係のない研究や無意味な論考に関しては,興味も関心も持たない。私と反対の意見や論考であっても,そこに得るものがあれば参照もするし,場合によれば反論もする。納得すれば,取り入れたりもする。私は自分の意見や主張を絶対視しない。固執する必要性も感じていない。変わって当たり前と思っている。
議論や論争も学問の進展,研究の深化と広がりには必要である。議論や論争を通して他者と交わることも大切である。しかし,それは正当な議論や互いを尊重した論争の場合に限られる。まともな議論や論争が望めない相手の場合,私は一切関知しないことにしている。「関与しない」「無視する」ということは,何の行為もしないということである。


今夏,目標としていた「ハンセン病史」も3分の1程度しか整理できていないが,全体像は見えてきた。

posted by 藤田孝志 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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