2012年11月12日

差別に関する断想T:「理由」の否定

我々は,<差別の理由>を否定しているのか,それとも<差別>を否定しているのだろうか。

今までの部落史研究は,<差別の理由>を<差別>の根拠と考え,その<理由>を批判・否定することが「差別問題の解消」となると信じ,<差別の理由>をさがしてきた。

部落差別の原因を「近世身分制」に求め,「賤民」「穢れ」に求めてきた。
なぜ当時の社会や政治,人々が特定の人間を<差別>したのかと,その<理由>を探って研究を続けた。
<差別の理由>が明らかになれば,そして<差別の理由>を否定できたならば,<差別>は解消できると信じて,特定の人間を<差別>した<理由>を探してきた。

しかし,<差別の理由>が否定されたからといって,<差別>は解消・解決するだろうか。

「賤民」である(とされた)から<差別>されたという<理由>が否定されることで,部落差別は解消するだろうか。
「賤民」でない者を「賤民」として<差別>したのだから,「賤民」であることを否定すれば,「賤民」ではなかったことを証明すれば,部落差別は解消し,部落問題は解決するのだろうか。

(その時代の)人々は,彼らが「賤民」であるから<差別>したのだろうか。


確かに,何らかの<理由>はあったのだろう。その<理由>が非科学的なものであり,作為的につくられたものであったとしても,それを迷妄する者によって<理由>として正当化されていったのだろう。

その一つが「穢れ(ケガレ)」であった。

「ケガレ」を迷信であると否定することは,<差別の理由>を否定することである。
しかし,それだけでは<部落差別>は解消・解決することはない。

なぜなら,<差別>そのものが否定されないからだ。<差別>それ自体を否定する人間の生き方・在り方・考え方が必要とされている。

<差別の理由>を理解・認識しても,<差別>をするかしないかは別である。

<理由>を否定することと,<差別>を否定することは,同じでなければならない。


…ハンセン病っていうのは,必ず隔離とか差別・偏見につながるものです。もし治療できなかったら差別していいのか,偏見をもっていいのか,個条書きになっている文章を否定してみたらよくわかるんですね。うつる病気だったら差別していいのか,よくないですね。遺伝病であれば差別しても問題はないのか,…

(邑久光明園名誉園長牧野正直『ハンセン病市民学会年報2011』)

なぜハンセン病患者は隔離・排除され,差別されてきたのか。

長くハンセン病は「遺伝病」「天刑病」「伝染病」として,人々から偏見と差別の目で見られ,社会から排斥され,国家によって離島などに隔離され続けてきた。
その理由は,「遺伝」「伝染(感染)」である。

ハンセン病問題に関する啓発では,この2つの理由を否定することが中心であった。「遺伝病」ではない。「感染」力は非常に弱く,うつらない病気である。

<理由>を否定することにより,ハンセン病問題は解決すると考えてきた。

確かに「病気」という観点からは,完全に治癒できる,感染力が非常に弱い,遺伝病ではないという「まちがった知識の改訂」「認識の改善」は,ハンセン病への偏見をなくす効力はあった。人々の認識から「こわい病気」ではなくなった。

しかし,<理由>を否定することは,別の<理由>を肯定することになる。

ハンセン病は「感染力が弱い」「遺伝病ではない」から<差別>してはいけないという論理は,「感染力が強い」あるいは「遺伝病である」ならば,<差別>してよいという論理を導くことになる。

「病気」である以上,感染力が強ければ「隔離」は当然である。感染することを恐れるのも当然である。人類あるいは社会を守るという観点に立てば,隔離もまた必然である。

では,ハンセン病が解明されていなかった時代に行われた隔離政策も人々の偏見・差別も仕方がなかった(当然のこと)であったのだろうか。

「隔離」と「差別」は根本的に別のことである。この認識があるかないかであろう。


部落差別の理由を「賤民」であったかどうかに求めるのは,部落が「賤民」であったことを「理由」に差別されている場合に有効であるが,他の「理由」が要因であれば効果的な方策とはならないだろう。

部落問題は複雑な構造をもち,差別の要因も多様であると考える。

一つの要因を否定しても,他の理由があり,かつ新たな要因が発生する限り,差別の解決には至らないだろう。


<本来「賤民」でないにもかかわらず,特定の人間を「賤民」として差別してきた>は,賤民肯定論である。
<本来「賤民」は存在しないにもかかわらず,特定の人間を「賤民」として差別してきた>は賤民否定論である。

前者は,「賤民」という存在がいたことが前提となる。つまり,「賤民」でなければ差別されない(差別されなかった)のである。では,「賤民」であれば差別されてもよいのだろうか。差別は「賤民」であるかどうかで決まったことになる。

後者は,「賤民」そのものが存在しなかったことが前提となる。存在しない「賤民」という存在をつくり,差別の対象とした人間や社会の在り方が問われなければならない。

私は「同じ人間」を「賤民」と規定し,差別の対象とした人間や社会,そうした賤民肯定論そのものを否定する立場に立つべきと考える。

同様に,「身分」などあるべきではないにもかかわらず,「身分」「身分制度」を創造し,肯定した人間及び社会,学問を否定する。

祖先の「末裔」ではなく,祖先の「身分の末裔」を声高に言うこと自体が時代錯誤である。祖先が「百姓身分」であろうが「穢多身分」「非人身分」であろうが,「武士身分」であろうが,身分・身分制を否定して成立している現代社会においては時代に逆行する考えである。
祖先を誇りに思うのは当然であるが,祖先の身分を持ち出して,その身分の「末裔」だから誇りを持たなければならないなど,身分肯定論でしかない。ナンセンスな話だ。

祖先の「身分」が現在の人間を規定しているなど,それこそ「部落差別」の温床であろう。
松本治一郎の言葉「貴族あるところ賤族あり」と同じである。

posted by 藤田孝志 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 差別論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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