2011年10月09日

秋の読書

私は季節の中で「秋」が一番好きだ。

書斎の窓を開けて,秋風を感じながら読書や物思いに時間を忘れる,そんなひとときに最適な季節は秋だと思う。
窓の外に広がる田んぼの色が日ごとに変わっていく。緑から黄緑へ,淡い緑に黄色が混じり始め,今は一面が黄金色に波打っている。
山も緑から黄・赤・茶など様々な色が混じり合った紅葉の季節となっている。

秋には「静寂」がよく似合う。自然の移り変わりを眺めながら,その対岸,まるで時間の流れの外にいるかのような錯覚を覚える。


先日,深夜TVで伊集院静をゲストに彼の著書について鼎談する番組があった。その時に,話題に取り上げられた本が『大人の流儀』である。話を聞きながら読んでみたくなり,早々に入手して今読んでいる。

この類の本は買ってまでは読まない。雑誌に連載されているのを喫茶店か理容店,あるいは立ち読みで済ましている。

季節のせいか,それなりの年齢になったからだろうか,この本に書かれている彼の感覚が理解できるし,共感もする。たわいのない日常の一コマについてのエッセイだが,妙に納得してしまう。

春夏秋冬と題された各章ごとに分類された短いエッセイの,その短文の中に一行あるいは一文,さらには表現に用いられた単語の一つに,はっとさせれたり,言い得て妙と感じたり,立ち止まって考え込んでしまったりさせられる。伊集院氏の文体は,どちらかといえば,現代的な軽妙さ(決して軽い?という意味ではない)で,すっと読み進んでいけるのだが…。

「人が人を信じるということ」という一文は数回は繰り返し読んだ。教師と教え子の交流をテーマに,自分と恩師との思い出を綴っている。描かれている逸話を読みながら私自身の高校時代と重なった。

私にも恩師と呼べるたった一人の教師がいる。伊集院氏の恩師がM野先生であり倫理社会の先生であったように,私の恩師も同じ教科のM口先生である。

…上京し,身体を壊わし,夢が失せ,彷徨する日々の中で自分が最後まで望みを捨てなかったのは,両親とM野先生のお陰である。

私も,曲がりなりにも教師として生きているのは,両親と恩師であるM口先生のお陰と思っている。

この一文の最後に,伊集院氏はこう書いている。

何人もの教え子に人間として何が一番大切かを教えてくれた人が日本中にいるのだろう。

この一文に,彼の優しさがある。恩師を通して彼が得たものは,信じるに値する人間がいることであり,人を信じることのすばらしさであったと思う。だから,彼は優しいのだと思う。

伊集院氏のように,教師に期待してくれる人間がいる一方で,何かにこじつけては教師の責任ばかり追求する人間がいる。
人を扱き下ろすことに終始する文章など読みたくもないが,その理由がわかった気がする。それは,他者を信じられない人間がルサンチマンの発散として書く文章だからだろう。

はたして私は恩師のような教師に少しでもなれただろうか。


この本もテレビ番組「ワールドビジネスサテライト」の人気コーナーの一つがそのまま本になったと聞いたので,興味を引かれて購入した。
この『スミスの本棚』には,番組に出演され「自分にとっての一冊」を紹介された42名の方のインタビューが収録されている。

ネットで購入したので,届くまで42名が誰であるか知らなかった。半数以上は初めて知る方たちであったが,読むうちに親近感を持ったり共感を覚えたり,興味がかき立てられたりするようになった。

こうした本を読むと「人に人生あり」を実感する。その中で誰しもが「本」とも出会っている。人生を決定するような出会いに「本」が含まれていることをうれしく思う。


久しぶりに古本屋に行き,2時間ほど店内を散策して数冊の本を購入した。

以前より探していた本も見つかり,その中の1冊は存在すら知らなかった。著者の荒木祐臣氏は郷土史家で,岡山藩に関する本を数冊書いている。私は以前より彼の本を収集しており,そのほとんどを入手していると思っていたのだが,今回購入した『備前藩宇喜多・小早川・池田史談』は知らなかった。荒木氏の著書が他にもあれば読みたいと思っていたので,思いもかけず出会ったことがとてもうれしかった。

今回のように,偶然に「お宝」と出会うことができるから,古書店巡りはやめられないのだ。私のように,フィールドとしている世界がマイナーな場合,出版部数も少ないため,入手が困難なケースが多い。実は,未だに探している本もある。

本書は『池田家履歴記』『古備温故秘録』『市政提要』など池田家関係の古典的な史料や郷土誌から史実を抜粋して書かれたものだが,それら史料そのものから読み解くよりも簡潔であり,「史秘」と称するものを知る上で便利である。
本書を元にさらに調べたければ原典史料を探せばよいのであって,解釈や考察にヒントを与えてくれる。

岡山藩に関する谷口澄夫先生などの先駆的研究もあるが,私の研究分野に接触する研究はほとんどない。また,岡山藩の細部に関する研究には未解明な部分も多くあり,それらの研究に十分な進展があるようにも思えない。(もちろん,郷土史家や地元研究者が地道な研究を続けていることも,着実に成果を上げていることも知ってはいるが…)
たとえば,私の専門とする部落史に関しても「渋染一揆」ばかりがクローズアップされるが,それ以前の穢多身分・非人身分の存在形態や身分的位置づけ,村落における百姓との関わりなど未解明な部分も多い。

何よりも単一政権として江戸時代を維持してきた池田家に関する膨大な史料群を解明すべきであろう。

本書の中で,特に興味を引かれたのが「備前の説教者」に関する史料紹介である。備前で蝉丸宮より免許を貰った説教者の名が列挙されている。
『撮要録』に「木偶人芸」の項目があるが,岡山にも多くの説教師がいたことは興味深い。


『オン!埴谷雄高との形而上対話』を知ったのは,著者である池田晶子氏が亡くなった後のことだった。いつか読みたいと思っていたが,なかなかお目にかかることがなく今日に至ってしまった。

埴谷雄高との付き合いは相当に長い。高校時代,高橋和巳を経由して埴谷雄高と出会って以来だ。最初に手にしたのは「評論」であったが,独特の文体と表現,使用語句にも関わらず,私にはわかりやすかった。
だが,彼を知るほどに,その難解さは次第に加速度を増して深くなっていった。そして無謀にも『死霊』に挑戦し,あえなく撃沈した。その後も幾度か挑戦し,大学時代には数度読み通すことができ,ある程度の概略も理解できるようになったが,彼の「思索」を追究しようとすれば,確実に挫折した。

それゆえに,未だに埴谷雄高は私にとっての未踏峰なのだ。

私の書棚には埴谷雄高の全集と何冊かの評論集,そして「埴谷雄高論」を含めた評論集が並んでいる。しかし,ここ十数年は手にも取っていない。高橋和巳の著書や関連書籍と同じく封印されたままである。

池田晶子という哲学者がどのように解いたか,まずは読んでみたくなった。


秋の読書は,今年も支離滅裂なものとなってしまいそうだ。でも,それがまた楽しい。

posted by 藤田孝志 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月02日

夏の終わりに

買っておきながら積み上げて放置している書籍,郵送された紀要や論文,コピーした資料類などを整理しようと,ここ数日間片付けているのだが,目にとまった本や資料を読み始めて,気がつくと時間が過ぎてしまい…を繰り返して一向に終わらない。それどころか本棚の整頓も始めようと思ったのがまちがいで,こちらも逆にひどくなってしまった。

元来,私は「整理整頓」が好きな方である。片付けるのも,きれいに仕分けるのも,大好きだし,散らかっていたり放置してあったりする方がむしろイヤである。
ところが,職場である職員室には,私と正反対の人間がいる。机上どころか自分の机の周囲,さらには隣の机までもあつかましく侵略しようとする人間がいる。前と左右に堆く積み上げられた本と書類,プリントの狭間にわずかな空間が残るだけの机で,仕事ができるものだと感心する。

学校は紙の世界である。生徒用のプリントに,報告や通知などの連絡書類,会議などの記録書類等々の「紙の世界」である。数日で机上が隠れるほどに集まってくる。それだけではなく,授業や研究に必要な本や雑誌類,文具類,PC関連機器もある。
古いアナログ体質がまだ多く残っているだけに,一般的な会社や事務所以上に時代後れの世界かもしれない。

しかも,何十年も前の机上が雑多に書類などで埋もれているのが「仕事のできる人間」と思っていたり,「教員の仕事と関係ない」と思っていたりする人間が非常に多い。
恥ずかしいのだが,職員室ほど雑多で汚く非効率的な職場環境はないと思っている。その最大の理由は,整理整頓を意識する人間も,実行する人間も少ないからだ。する必要を感じていないか,頓着していないか,単なる横着なだけかである。(生徒には言うのに…)

先日,本屋で「日経BPムック」シリーズの『新整理術』を買った。このシリーズには役立つ特集が多く,今までも数冊買っているが,本書にも十分に活用可能なヒントやアイテムが満載だった。書類の分類や整理の方法など参考にできるものが多く,早々に実行しようと思っている。

ということで,夏の終わり,まずは書斎から片付けようと思い立ったわけであるが…。


サイドテーブルに積み上げた本の中に,『解放令と明治維新』(塩見鮮一郎)があった。これも6月頃,出版されてすぐに買い求めていながら読んでいない。
読み始めて2時間ほどで読み終えた。いつもながら塩見さん独自の視点がおもしろい。研究者ではない作家の視点と堅くない文章が好きだ。
Blogなどに「くどい文章」を高尚さと勘違いして書いている方がいるが,読みにくいだけで楽しくない。

本書は,塩見氏の今までの関心と視点の延長にある。一連の「弾左衛門」関連,『貧民の帝都』関係の先が本書である。
江戸幕府が崩壊し,明治維新が実行される中,「解放令」が出された経緯とその影響について,政府・民衆(平人)・部落(被差別民)の各視点を交差させながら概説的に述べている。一言で,読みやすくわかりやすい。
岡山の「明六一揆」(美作津山一揆)や福岡の「筑前竹槍一揆」にも言及していて,要点を簡略にまとめている。(やや不十分さと疑問もあるが…)

塩見氏の著作から教えられたことも多いが,気づかされた視点のうち,特に納得したのが大政奉還後の江戸についてである。『貧民の帝都』に詳しいが,各藩の江戸屋敷は拝領屋敷であるから大名は将軍に返して自国に帰ることになり,そのため江戸の武士は激減する。将軍も静岡に帰り,旗本御家人もまた江戸を去る。この数年間の擾乱について教科書に一切の記述はない。

最近出版された『江戸っ子の意地』(安藤優一郎)も同じ着目によって書かれた幕末維新史である。塩見氏の二番煎じの感は否めないが,江戸幕府崩壊後の「江戸の解体」と「東京府の混乱」について幕臣の視点からよく描いていて,興味深い。

これらが,従来の教科書中心の歴史から脱却するためのポイントである。


今夏の最大の収穫は,福岡の2日間であった。
長年に渡り,私に多くの教示と示唆,深い友情を与え続けてくれている石瀧豊美先生と過ごし,夢であった「筑前竹槍一揆」の現地を訪ねることができたことが嬉しかった。

私の部落史・部落問題への視点は石瀧先生によって決定づけられていると言っても過言ではない。時に遠く離れていることが悔しく感じられることもあるが,文明の利器であるメールと電話が助けてくれる。しかし,実際に会って話すことでしか感じることのできない感覚がある。これは「現地研修」と同じである。

今回は,石瀧先生の友人とも出会うことができ,とても有意義であった。石瀧塾の世話役である塚本氏と,花乱社の別府氏である。物静かな中に旺盛な探求心と堅実な人柄を湛えた塚本氏には翌日の現地研修,私の講演にもお付き合いいただいた。石瀧先生が全幅の信頼を寄せられるのが頷ける人物である。

別府氏の博識と信念には圧倒された。政治学が専門というけれど,時代を見る独自の感性は人との出会いによって培われたものだろう。その根底には,歴代の政治学者を自分の思考で読み解いてきた蓄積がある。丸山真男を語る論調にその一端を見た思いがする。

久しぶりの講演,しかも「渋染一揆」に関する内容であった。
教科書の部落史に関係する記述が大幅に削減され続けている現状がある。来年度から使用される新しい教科書も大幅に内容が増えたにも関わらず,部落史に関する記述はあまり変化は見られない。最近の研究成果が十分に反映されているとも思えない。どちらかといえば,最近の路線である本文ではなく,「コラム」や「特集ページ」扱いでの記述で,内容も不十分である。


溜まっていたコピーの山を仕分けすることができたが,それらを読み込んでまとめることを考えると気が遠くなる。時間がほしいことを実感する。

posted by 藤田孝志 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月08日

不作為の犯罪人−主体者の自覚とは

今年もまた,日本人にとって決して忘れてはならない8月が訪れた。
8月は,広島・長崎への原爆投下,太平洋戦争終結の月である。

戦争を体験した世代が少なくなり,知らない世代の我々がほとんどを占めるようになった現在,原爆も戦争も人々の関心から消え失せようとしている。

学校現場,教育現場において「平和教育」がどれほどの内容で行われているだろうか。年々,その内容も重みも希薄になっているように感じている。教育の多様化と教育内容の増大から「平和教育」「人権教育」の実質的な時間と内容の削減が加速化しているようにも思える。学校が「教科」と「部活」の世界になってきている。


来年度から指導内容が改訂された新しい教科書となる。今夏,新しい教科書を見る機会があり,記述内容を検討してみた。

文科省,そして国家の統制下にある「教科書」がもつ「思想教化」という側面に危機感を抱かざるを得なかった。

私は「教科書を教えるのではなく,教科書を通して教える」立場を重視するが,しかし生徒にとって「教科書」は絶対的な「知識」である。教科書に記述されている内容を真実と思い込み,認識と思想の核としていく。そこに「思想教化」が「人民統制」につながる機能が隠されている。

【…戦争中時勢に迎合・便乗こそしなかったけれど,自分一個の良心を守るのに専念し,あの悲劇をくいとめるために何一つ抵抗らしい試みをせず,多くの同世代が悲惨な運命に陥るのを傍観したことに対し,深い心の痛手を負っている。いまふたたび執筆を放棄して,自分ひとりの良心を守ることで終わるならば,同じ後悔を繰り返すことにならないだろうか】(『教科書裁判』)

【…しかし社会が不幸になる方向に向かってころげ落ちようとするのをほかに見て,自分には専業の仕事がある,とすましているのが,はたして学問をするもののとるべき態度であろうか。太平洋戦争のあいだ,私は不自由−不自由というのは,役立たずの学者のことだと思いますが−となることによって媚びへつらう学者になることを免れた。私はいまになって自分が消極的意味での戦争犯罪人,すなわち戦争を防止するための義務を怠った不作為の犯罪人だったという自責の念に耐えない。私は今度こそはその後悔を二度としたくないと思う】(『形成』7月号)

この2つの文章の著者こそ,長年にわたり教科書裁判を闘い抜いた家永三郎である。

彼は,戦争中にあって自分が学究に終始したことに対して非常に強い自責の念を感じていたのである。だから,彼には「たかが教科書検定」とは決して思うことができなかったのである。

戦争へと国民を駆り立てた責任の一端を学者として痛切に感じていた彼にとって,教科書の記述内容によって再びあの惨禍が引き起こされるかもしれないという危惧があった以上,目をつむることはできなかったのだ。

「差別解消の主体者」とは,他の誰でもなく自らが意志と判断によって差別をなくしていこうとする言動を行う者である。
高橋和己は「知ったことに対する無関心は,罪ではなく人間の物化である」と言った。声を上げ,行動することでなければ変えられないことがある。防ぐことができないことがある。 

家永三郎の姿勢こそが「主体者の自覚」によって貫かれた生き方である。我々が持ち続けるべき自覚と姿勢である。

たかが教科書の記述としか思わない人間が「不作為の犯罪者」となり,「差別者」となるのだ。第2次世界大戦において京都学派の哲学者たちによって戦争肯定の「思想操作」が行われ,軍事教練の名目で軍人による偏向教育がなされた事実を忘れてはいけない。明治以降の学校教育こそが「思想操作」であったことを教訓として忘れてはいけない。

ハンセン病問題においても国賠訴訟によって国家の「不作為」が断罪された。
明治以後の近代史の流れを大観するとき,国家による「作為」の犯罪と同様に,人々や社会,国家の「不作為」もまた犯罪であったと痛感する。

価値紊乱の時代だからこそ,せめて「平和と人権を尊重し,差別をなくしていく」姿勢を価値基準として貫きたいと思う。

posted by 藤田孝志 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月06日

亀毛兎角

ネット社会の最大の問題点は「真偽の不確認性」にある。

ネット社会の利便性の一つは,誰もが何の校閲を受けずとも自由に文章を公開できることだが,それは「諸刃の剣」でもある。なぜなら,ネット上に公開された情報の真偽を確認できないことが多いからである。万人が知りうることができ,その真偽を確認することが可能な情報であれば,例え正反対の立場からの発言であっても,さまざまな解釈の一つと理解もされるだろう。しかし,狭小な情報や個別的・個人的な情報であれば,その内容を確認することは不可能である。

その不確認性を「悪用」して,デマや虚偽を発信する人間もいる。
狡猾な手法を使えば,特定の個人に対する「非難」や「イメージダウン」などの個人攻撃もできる。また,事実を自分に都合よく歪曲したり捏造したりすることもできる。

オオカミ少年の寓話と同じく,されてもいないことをされたと書くことで,自己正当化あるいは自分への同情・関心が向くように,さらには非難・攻撃した相手が悪いように思わせるという狡猾な手法を使う人間がいる。

このような悪意ある誹謗中傷の記事の真偽を確認することは難しいが,その「例証」と「文章・記事の不整合さ」に注視することで,ある程度は判断できる。

先ほどの例では,「誰に・何を・どの記事で・どのように…」という具体的な内容や出典などの例証がまったく記載されていない。「誹謗中傷・罵詈雑言を浴びせられた」「攻撃された」「非難されてきた」等々の抽象的な文言だけを延々と繰り返すだけである。これらが事実であるならば,きちんと出典をあげて明示すべきである。それができない理由は,それらが勝手な「妄想」であり,「独断と偏見」から「どこにも・誰も・書いていない」という事実を歪曲・曲解しているだけである。むしろ,それらをわかっていながら故意に,意図的に書いていると考える方が妥当だと思う。
「引用」についても,色を変えたり,< >を使ったりすることで「引用」のように見せかけてはいるが,その引用先や出典などは一切記載されていない。その「引用」(のように見せかけている)文章も自分が勝手に捏造しているだけである。

被害者を装う狡猾な手法で自己正当化をはかっているだけとしか思えない。

虚偽や捏造を繰り返し重ねることで,いつしかさまざまな矛盾が生じてきていることに気づきもせず,その結果,虚偽や捏造であることが露呈している。なぜなら,その人物の書いている内容,「非難」の言葉も「引用」の文章も一度たりとも見聞したことがないからだ。
しかし,そのようなことを,ネット上の不特定多数の人間が気にかけることもないだろうと考えての言動である。ましてBlogでは,毎日大量に書く記事などすぐにトップページから消えてしまう。計算しての意図的な策略である。

ネットモラルや個人情報保護,人権への配慮などを無視した言動を繰り返せば,本来自分が最も訴えたい主張や提言に対して正当な評価がなされるとは思えない。

何よりも虚偽や捏造で自己正当化をはかったり他者を貶めたりすることを執拗に画策する姑息さに辟易する。

このような人間が平然と好き放題なことを不特定多数に公開できるネット社会の無秩序と無責任さを危惧する。

posted by 藤田孝志 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

原点回帰

ようやく長かった1学期が終了した。

昨年・一昨年と持ち上がった学年は何かと問題の多い学年であり,彼らとの日々に追われて自分の時間を十分に持つことができなかった。だが反面,彼らとの日々によって得ることも多かった。彼らを通して,教育とは何かをあらためて考えさせてもらった。彼らとの毎日が若き日を思い出させてくれた。その悔いを課題に,喜びを自信にして,新たな学年と学期に取り組んできた。その成果は確実に生まれてきていると思うが,さらなる前進のための夏季休業中としたいと考えている。

今年は「原点回帰」と自らを位置づけて取り組んでいる。

教育について,人権教育について,部落史・部落問題の研究について,自分にとっての教育と研究をしっかりと位置づけておきたいと思う。他者に左右されるのではなく,自分にとっての為すべき道を歩みたいと考えている。


教師の1年間など同じサイクルの繰り返しで,ともすればマンネリ化してしまいやすく,惰性に流されてしまいやすい。教える内容も学校行事もほとんど変化がなく,表面的には何事もなく無難に消化すればよいだけの毎日である。
教師の力量が問われる授業力や教育力にしても,勉強しない生徒のせいにすれば事足りる現実が見え隠れする。成果が給料に反映しない公立学校の現状では,教員評価もほとんど無意味である。

教育の荒廃,その最大の原因は教師である。心底,実感する。

しかし,日々を自己研鑽に努め,教師としての教育力・授業力・指導力を向上させようと努力し続けている教師も多くいる。夜遅くまで,生徒一人一人の顔を思い浮かべながらわかりやすい授業を考案し,プリントを自作している教師もいる。部活動を通して技術だけでなく精神面を鍛え,人としての礼儀作法を教える教師もいる。放課後に教室の片隅で生徒の悩みを受け止め,人としての生き方を説く教師もいる。

だが昔に比べて,真剣さを少なく感じるのはなぜだろうか。特に若い教師,ゆとり世代といわれる教師に,何か物足りなさを感じてしまう。
その一つが,職員室や飲み会での教育談義の質的低下である。私の若い頃は,先輩教師から教育のイロハを懇々と説かれた。放課後の職員室から始まり,場所を飲み屋に移し,深夜まで授業や部活動,教育方法や教育理念まで教えてもらったものだ。教師という仕事に誇りを持ち,生徒を愛し,自らが教える知識と認識に自信を持っていた。武勇伝ともいえる生徒との関わりを懐かしく語る教師が多くいた。教え子の成長を我が子のように語る教師がいた。

教育への情熱,そんなものが今の教師からはあまり感じられない。あまりにもきれいすぎる。教育現場の表面だけを単調な日々が流れていく。一抹の寂しさがある。


今夏の間に,部落史研究では「渋染一揆」を体系的に整理し,同様に「ハンセン病問題」では時代背景をふまえた近現代史を整理しておきたいと考えている。

「渋染一揆」については,8月に福岡で講演を依頼されていることもあり,またここ数年自分なりに考えてきたことをまとめたいとも思っていたので,途上ではあるけれども一つの区切りをつけたいと考えている。
特に従来から諸説がある「要因」に関しては時代背景なども含めて提起したいと思っている。なぜ「渋染」にこだわったのか,なぜ岡山全域の穢多身分の人々が立ち上がったのか,彼らが求めたものは何であったのか,当時の彼らが置かれていた社会的位置,彼らの生活はどのようなものであったのか,等々についても考えてみたい。
そして,何よりも「渋染一揆」の経緯を時系列で再度検証してみたいと考えている。

「ハンセン病問題」に関しては,中世から近世においての賤民身分との関係に焦点を当てながら考えてみたいと思っているが,その前に明治から現代に至る絶対隔離政策への経緯を時代背景や国家の動向と関連させながら,その要因について考察してみたいと考えている。
「ハンセン病問題史」といえるものだが,藤野豊氏の研究などをもとに自分なりにまとめてみたいと思っている。その際に,藤野氏の「国家の責任」という視点は重要であり,「差別の連鎖」という部落問題などとの関連の視点も重要である。そして最も私が興味をもっているのが,国家による民衆への意識操作であり,その理論背景ともなった光田健輔たちの考えであり,それらを無作為に受け入れた民衆の意識である。

この民衆の意識が「差別の連鎖」「差別構造の基盤」「差別解消の障壁」であると私は考えている。


同和教育・人権教育に関しても多様化しすぎて,むしろ拡散化して焦点が曖昧になっているように思える。さらには形式的・表面的な取組に終始して,義務化・行事化しているきらいもある。あれもこれもが人権教育の範疇として取り上げられ,まるで流行に乗っている感もする。

今一度,同和教育の原点へと回帰して「今」を見つめ直すことが,現在の教育現場には必要なのかもしれない。

今夏は,じっくりと考えてみたい。

posted by 藤田孝志 at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時分の花 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

自己中心主義

光田健輔の言動を検証していると,偏狭な正義感と思い込みの激しさ,自意識過剰と思えるほどの強烈な自負心に唖然とさせられる。それらが彼の言動を支え,「絶対隔離政策」を遂行させたのである。

彼の性格・人間性を端的に述べるならば,【自分に賛同する者には限りなく優しく愛情を注ぐが,自分の意に沿わない者や反抗する者に対しては冷酷なまでの仕打ちを行う】という極端な自己中心主義である。

このようなタイプの人間を時として見かけることもあるが,光田ほど極端に「自己愛の強い人間」は,彼以外に一人しか私は知らない。しかし,この二人は実によく似ている。
他者の言葉に耳を傾けることもせず,明らかな時代錯誤やまちがいさえも認めず修正もせず,頑強に自説に固執し,自分の意に反する者には執拗な攻撃をし続ける。その他にも類似する面は多い。光田の心理分析はいつか考察してみたいが,もう一人については関わりたくもない。

両者に共通するのは歪んだ自尊心の過剰さであり,その根底には肥大化したコンプレックスがあると思う。コンプレックスからの攻撃性であり,過度の自己防衛本能である。自尊心とコンプレックスは表裏一体である。他者のまなざし(視線:評価)が気になって仕方がない。あえて自虐的な自己評価をするのも,逆説的な意味で他者からの高評価を望んでいる証拠であり,決して本心ではない。
本心は,他者からの羨望や尊敬を集めたくて仕方がない。その欲求の強さゆえの反動が,自分を認めない者,評価しない者への執拗なまでの攻撃性へと転化される。これも自己中心主義の結果である。

自分に逆らった者や賛同しない者,反する者への容赦ない対応,それも陰湿な言動と執念深い性向などは同質であるが,光田の場合は周囲や患者への威圧であり,もう一人の場合はネット上で展開される独善的な発言とモラルを無視した誹謗中傷である。

時代の違いはあるが,独善性から発せられた両者の言動が多くの人々を不快にさせ不幸に貶めていることは事実である。
このことに気づかないほど独善性が強い自己中心主義が,より一層の自他への不幸を生み出している。


今回の松本龍前復興担当大臣の傍若無人な態度と威圧的な暴言が大きな問題となっている。連日のニュース報道に刺激されたかのように,ネット上での批判・非難の書き込みもエスカレートし,彼の過去から人格・人間性にまで言及し,祖父である松本治一郎のことから部落解放同盟から解放運動に至るまで,あれやこれやと暴き立て,誰も彼もが一端の評論家・批評家のように論じている。

確かに彼の一連の言動については,誰もが眉を顰める不祥事であろう。高圧的な態度と命令口調,「してやっているんだ」という傲り高ぶりは,いったい何様のつもりだと思った。「被差別の現実に学ぶ」「被差別の痛みを知る」「被差別の立場」等々の部落解放運動が大切にしてきた反差別の姿勢は彼の中には育っていなかったのだろうか。部落出身者であり,過酷な差別を見聞してきた彼だからこそ,誰よりも「被災者の立場」に思いを寄せることができたのではないだろうか。

たとえ「被災者の本音」がわかるから代弁として知事に気持ちをぶつけたとしても,それがあの粗野な言動であれば,本末転倒だろう。

Blog【ストーン・リバー】に,次の一文が書かれていた。そのとおりと思う。

松本龍がたたかれ、愛想をつかされるのは、それこそ自業自得だし、身から出た錆だから仕方がない。しかし、それは部落問題にも大きな影となって墜ちてくる。藤田敬一さんは、「たった一人の言動が6千部落300万人の評価に関わると心して生きよと教えられてきたんです。たった一人の言動で『部落の人は』と言うんです。それが偏見なんです」と言った。だからこそ部落解放運動は、自分を厳しく律して生きることを教えてきた。これをわきまえていれば、あんな言動にはならないはずだ。

ただ,今回の件に関して,いくつかの新聞や雑誌の記事,Blog上での発言などを読んだが,面白半分の内容やここぞとばかりの非難,揚げ足取りの皮肉やイヤミには些かうんざりした。

特に,松本氏の言動,物言い,表現について非難を書いている本人が,他の事柄では誹謗中傷としか思えない内容や他者を侮蔑したり嘲笑したりする表現を平気で使っていることに呆れ果てた。
自分の書いた文章,使っている表現や言葉,今一度振り返ってみるべきではないかと思う。他者の人間性や品格を論評する前に,自分の品格や言動こそ顧みるべきだろう。

松本龍氏もまた「自己中心主義」に陥ってしまい,自分の言動を振り返ることのなかった結果が今回の件となったのだろう。彼もまた「裸の王様」だったのかもしれない。

しかし,彼は今回の件でそのことに気づいたことだろう。もし,気づくことができたならば,彼は成長することだろう。
だが,気づくこともなく,周囲の声に耳を貸そうともせず,誰からも示唆を受けず,逆に反発してさらに意固地になる人間はどうなるのだろう。

光田健輔のように「裸の王様」として生きてくのだろうか。


なぜ人は自己中心的な考えに陥るのだろうか。客観的な判断・多面的な視点の重要性を改めて痛感する。

posted by 藤田孝志 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月26日

刑罰制度と治外法権

ダニエル・V・ボツマンの『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』によって教えられたことは,治外法権を日本人の視点からではなく,外国人の視点から考えることであった。これは,従来の教科書記述にはない視点であり,見落としてきたことである。

もし逆の立場から考えてみれば,治外法権の重要性と必要性は十分にわかるはずだ。
江戸時代にタイムスリップした現代の医者を主人公にしたTVドラマが放映されているが,もし自分が彼のように幕末の江戸時代に投げ出されたとして,そこで行われる裁判や刑罰,処刑について考えてみるだけでも納得するだろう。

ボツマンの考察したように,日米修好通商条約の「治外法権」(領事裁判権)が,江戸時代の拷問・刑罰制度に対する欧米列強の恐怖による要求項目であったこと,それゆえ条約改正の絶対条件が日本の刑罰制度の改革であったこと,この歴史的背景は確かな事実であったと思う。

特に,幕末から明治初年に日本を訪問した多くの外国人が見聞した「攘夷事件」と実行した日本人の処刑は,日本の「血なまぐさい刑罰」を強烈に印象づけたにちがいない。


幕末の「攘夷事件」について,外国人襲撃とその顛末を中心に簡単な年表にまとめてみた。(攘夷事件

これらの事件は,やや誇張気味ではあるが,見聞した内容を詳しく具体的に本国である欧米諸国に報告された。

「鎌倉事件」について,処刑に立ちあったアーネスト・サトウは次のように書いている。

扉が開かれて目隠しされた1人の男が縛られたまま群集の間を引かれてきた。その男は荒むしろの上に膝まずかされた。背後の地面には血を受ける穴が掘ってあった。
付添いの者がこの男の着物を下へ引っぱって頸部を露出させ,刀の狙いを充分よくするために罪人の髪の毛をなであげた。刑吏は刀の柄に綿布を巻きつけて,刃を充分に研ぎあげてから罪人の左に位置を占めた。それから双手で刀を頭上に高くふりかぶってこれを打ちおろすや首は胴体から完全に切り離された。
刑吏はその首を持ちあげて,立会いの首席役人の検視に供した。その役人は簡単に『見届けた』と言った。首は穴へ投げ込まれた。

それから次の男が引き出されてきた。付添いの者は罪人をちょうどよい位置に膝まずかせるのに少々手こずった様子だったが,遂に人々の満足するようにやり通せた。
前回のように頸部が露出されるや前と別な刑吏が進みでた。そして,罪人の左に立ち,刀を振りあげ,前と同様な鮮やかな手並みで振り下ろした。付添いの者が首のない死体を穴へ抱え込んで,それをもみながらなるたけ速く血を流し出そうとしているのは身の毛のよだつ凄惨な光景だった。


欧米諸国にとって,自分たちが磔になったり切腹を強要されたり,あるいは拷問を受けたりする不安が残る限り,治外法権は絶対に撤廃できない条項である。

日本の刑罰制度の変遷について,簡単にまとめてみた。(刑罰制度の変遷

条約改正について,教科書記述のように「ノルマントン号事件」の不当裁判から欧米諸国の理不尽さと不平等さを強調する解釈では正しい理解とは言えない。

歴史を正しく解釈することの重要性,多角的な視点の大切さをあらためて考えさせられた。そして,この重要な視点は,部落史にも言えることだと痛感する。

一方からのみの分析・考察が陥りやすい過誤である。特に,「被差別」や「弱者」「民衆」という立場を強調しようとすればするほど,それらと対比する立場への批判が正当化され,しかも攻撃的な非難さえも肯定されてしまう。

「批判精神」は重要であるが,「批判すること」を目的に検証や考察に終始すれば「偏見や独断」に陥ってしまいやすい。また,特定の主義や主張に固執すれば,宗教のように「教条主義」に陥ってしまう危険性がある。

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2011年05月29日

『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』再読

昨年末,本書を読み,その若干の感想を書いたが,今あらためて再読している。


私は,いくつかのテーマを平行して考えることは苦手で,どちらかといえば一つのテーマを深く掘り下げることを好むが,いつ頃からか2〜3のテーマを常に抱えながら,文献を読んだり論考をすすめたりしている。今も,次のテーマを考えつつ日々の本務を過ごしている。

黒川みどり氏の『近代部落史』に触発されて,黒川氏の論考をもとに「近代部落史」の概観をまとめている。時系列に黒川氏による時代背景の考察をもとにしながら,ノートに整理しているが,時代の進展との関連性や部落解放運動の変遷がつかめて興味深い。

これも黒川氏の影響だろうが,あまり興味のなかった戦後の部落解放運動もテーマとして考え始めている。買ったままで読んでいなかった『戦後部落解放論争史』(師岡佑行)全5巻を通読している。大部な書であり,引用の多さに圧倒されながらも,水平社が自然解消され,戦争を経て,戦後に新たに結成された部落解放運動の紆余曲折の歴史を概観できる本書は,最良のテキストと思っている。

そして,江戸幕末から明治初期の移行期を考えている。幕府と諸藩の解体,明治新政府の成立と近代化政策による大きな社会変動の中で,被差別民はどうなっていったのかを考えている。
そのテーマに別の視点を提示してくれたのが本書である。幕末から明治へと大きく社会が変化することに,直接のきっかけをあたえ,深く関わることになった外国との関係を考察していて興味は尽きない。


本書の論旨を簡略にまとめるならば,次のようになると思う。

幕府は「刑罰を,社会秩序を維持し権力を行使するための複雑な戦略の一環」として利用したが,「為政者への信望を損なうことなく機能し続け」させるために,実際の処刑役を被差別民に命じた。つまり,刑罰ももつ「社会秩序の維持」という側面では武士を,「悪行と残酷さ」という側面では被差別民を民衆に意識づけたのである。

…幕府が厳罰を使い続けながらも,「仁政」という基本イメージを崩さないようにするための方策があった。幕府は,厳罰について最も不快で最も目立つ事柄を処理する責任を,正式に制度化されていた「賤民」つまり「被差別民」の一団に負わせていたのである。

…幕府は,被差別民の非道な行為を阻止する存在となることで,自分たちは仁政を施しているのだと言い張ることができた。つまり,被差別民が非道な「屠者」となったのに対し,武士は慈悲深い為政者として生命を守る存在になったのだ。

本書の「解説」に真柴隆弘氏も次のように書いている。

幕府は畏怖されるばかりの恐怖の権力ではなく,慈悲にあふれたまさに親のような仁君としてのイメージ作りにも工夫を凝らした。…

…徳川幕府は恩赦や規則の手加減などによって「慈悲」を示すとともに,被差別民を刑罰の執行に携わらせることによって,残虐さのイメージを彼らに転移させることに成功する。

この点について具体的に書かれている部分を,少し長いが抜粋して引用する。

すでに江戸時代が始まる前から,被差別民は一部の刑罰の執行にかかわっていたが,それが全国に制度として広まっていくのは,江戸時代に入ってからのことである。実際,綱吉の時代には,幕府が命じる刑罰のほとんどすべての場面で被差別民が重要な役割を果たすようになっていた。…一部の刑罰では,被差別民は武士である役人の単なる手伝い役として働いた。たとえば斬首の場合がそうだ。斬首を実行するのは,公儀御様御用か,身分の低い打役同心である。首打役が罪人の首に刀を下ろす準備をする間,2〜3人の被差別民が首をきれいに打てるよう罪人を押さえる役目をする。首が打たれたら,罪人の体を前に押し出して首を下げ,首から流れる血が前もって掘っておいた穴に流れ落ちるようにする。打たれた生首を回収して洗うのも,処刑場を清掃して死体を処分するのも,被差別民の仕事だ。この種の仕事は,被差別民を,死の穢を扱うのに利用できる人々と見る旧時代の観念と合致している。しかし,江戸時代には,実際に執行する場面で被差別民が中心的役割を果たすようになった刑罰もある。たとえば磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業も含め,すべての仕事が被差別民の頭と,その部下によって執行された。

磔と火刑の二つと,斬首とでは,生み出される恐怖の度合いが天と地ほど違うのは明らかだと思うが,もう一つ,…斬首は原則として堀に囲まれた牢屋敷の敷地内で執行されたのに対し,磔と火刑は野外の刑場で行われた…。…処刑の瞬間を見に来た者が,武士ではなく被差別民が罪人の死体を切断する行為に携わっているところを目にしたというのは非常に重要である。さらにその後,切断された死体は晒されるのだが,そのときに近くには必ず被差別民の一団がいて,死体の番をし,最後には(衆人が見る中で)死体を磔柱から下ろして始末した。獄門を言い渡された晒し首の場合も同様だ。役人が牢屋敷の敷地内で首を切り落とすと,被差別民が生首を持ち,市中を回って刑場へ運び,晒している間中,その場に座って番をする。日本橋で生きたまま晒の刑に処せられた罪人の番も,処刑前に罪人を市中で引廻すのも,すべて被差別民の仕事である。つまり江戸時代には,刑罰を庶民の目に公開しなくてはならない場合,その場には必ず被差別民の姿があったのである。

こうして非常に見える形で被差別民を刑罰制度に携わらせたことで,武士は慈悲深いというイメージを,少なくとも二つの方法で提示し守ることができた。…武士は刑罰を命じ続けておきながら,その刑罰の最も恐ろしい側面から距離を置くことができた点が挙げられる。世間の目から見れば,武士政権である幕府の命令を直接実行しているのは武士ではなく,情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと思われていた身分の低い人々であった。…幕府は,秩序を押しつけて平和をもたらしたことで,この国を悪行と残酷さから救ったとされている。まさに,この悪行と残酷さの象徴とされたのが被差別民である。…さらに同時に,罰せられた死体の近くに被差別民の姿を常に置くことで,本当の「屠者」「屠膾之類」は被差別民だという見方を強化し,それによって,かえって各地を支配した武士たちが決して善政を敷いていたわけではないという事実から人々の目をそらすことができた。

…厳罰を実際に執行するのは被差別民だというイメージを民衆の中に広めていったことで,武士はかつての「殺人者」「屠者」というイメージを捨て,民衆を守る慈悲深い守護者という立場を新たに手にしたのであった。

確かに,武士政権が被差別民を政治支配に意図的に利用した面は事実である。
しかし,現在に続く部落差別の要因を武士によって意図的に仕組まれた巧妙な政策にのみ求めることが果たして妥当かどうかについては疑問が残る。
著者であるボツマンも「差別が広がる直接的要因の一つとなったことは間違いない」としつつも「江戸時代の被差別民を,自ら歴史に働きかけることができず,なすすべもなく幕府の方針の犠牲となった人々と単純に考えるのは間違いだろう」と述べている。そして,塚田孝氏の研究成果を援用して,次のように書いている。

被差別民も他の社会的集団と同じように,生活を守り権力を手にする戦いにのめり込んでいったと考える方が,はるかに適切だ。…江戸時代の被差別民たちは,幕府にとって重要な役務をいくつも実施するのを承知することで,身分の安全をある程度勝ち取ることができた。社会の中で,低いとはいえ正式な身分として認められ,問題や争いが起きたときは,忠実に役務を履行する見返りとして幕府に助けを求めることができたのである。

…幕府から重要な役務を行う責任を課せられた被差別民の集団および指導者は,特権を求めることができたし,幕府の後ろ盾を得て他の被差別民を配下に置くこともできた。

私も大旨において同感である。従来のように,被差別民を無抵抗で無力な,虐げられた存在とは考えていない。しかし,上記に引用した刑罰に携わった被差別民に関するボツマンの記述は誇大すぎるように思う。処刑や晒を行う被差別民に対するイメージは,現在に生きるボツマンの感覚・感性であって,当時の人々の感覚・感性ではない。

「磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業」「その刑罰の最も恐ろしい側面」「悪行と残酷さの象徴」などは,現代人の感覚である。刑罰や処刑に対する当時の人々のイメージも現代人とは異なるものであったと考える。

はたして,当時の人々が被差別民を「情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと」思っていただろうか。私には必ずしもそうであったとは思えないのだ。

確かに,戦乱のない太平の世が長く続いていたとはいえ,刀の携行や槍の所持などが認められていた生殺与奪の権限をもつ武士がおり,百姓や町人も刀や短刀など殺傷力のある武器を所持することができ,また身分の上下に伴う権利や権限の格差が日常において社会生活のあらゆる面に適用されていた社会である。しかも,当時の刑罰体系において死刑は,刑罰として当然であり,磔も晒も当然のこととして人々に認識されている社会である。
そのような社会にあって,行刑役に対する人々の意識は,ボツマンのいうようなイメージだったのだろうか。

残虐な刑罰を命じる武士よりも,執行する被差別民の方を「殺人者」「悪行と残酷さの象徴」と思うだろうか。武士に命じられた役務であることも,犯罪に対する処罰であることも理解している人々が刑罰を執行する被差別民に対して,はたしてボツマンが述べるように思うだろうか。私にはやや単純すぎる発想のように思えるのだが…。


ボツマンは,当時多くの人々が市中引廻しを見に集まり,「鈴ヶ森刑場」や「小塚原刑場」で行われる公開処刑を見に集まっていたことや,処刑後の死体や斬首された生首が街道沿いなど目に付きやすい場所に晒されたことを重要視する。
その光景を「身の毛もよだつ(絶対に忘れられない見世物)」と評しているが,これもまた彼の感覚であり,現代人の感覚である。


ボツマンは,江戸時代の刑罰の数を非常に多いと考えている。
彼は,幕府が厳罰主義により人々を支配していた証拠であると同時に,残酷な処刑と晒による恐怖を与えることで治安と社会秩序を維持していたと考えている。
そして,その執行を実際に担い,人々からの「視線」を一身に身に受けたのが被差別民である。

…江戸時代の刑罰について信頼できる統計資料は数少ないが,その一つによると,1862〜1865年の間だけでも江戸では磔が15回も行われたという。さらに,この4年間に10人の罪人が火刑に処され,毎年平均100人以上が斬首になっていた。これは,人口が当時の江戸とほぼ等しかった18世紀末ロンドンで絞首刑にされた人数の優に二倍を超える。

…引廻しにも,見物人に恐怖という形で権力を見せつけるという目的があった。さらに,大規模な行列が「特別な」出来事であったのに対し,どうやら引廻しは江戸町民の日常生活に近いものだったらしい。実際に,そう思えるほど回数が多い。江戸で引廻しになった罪人の数は,1862年が29人,1863年が16人,1864年が9人,1865年が17人で,年平均に直すと約18人だ。さらに,この4年間に生首が1年あたり30回ほど市中を通って刑場へ運ばれている。つまり江戸では,引廻しが年平均で50回程度行われていたことになる。これは,一週間に1回弱のペースである。

…敲は,棒で背中や臀部を50回または100回打つ刑で,これも軽犯罪者に科せられる重要な罰である。女性には適用されなかったが,江戸時代の刑罰の中で最も多く執行され,1862〜1865年には,毎年江戸で800〜1000人が敲を受けた。

…原則として,他人の命を奪った者は「下手人」という名の特別な死刑で罰せられることになっていた。…下手人は江戸時代の死刑の中で最も軽いと見なされ,実際に執行されることは,きわめてまれであった。1862〜1865年の4年間で執行された死罪は285件程度だったのに対し,下手人が行われたのは,わずか二回にすぎない。

ボツマンは,自説の根拠を平松義郎「幕末期における犯罪と刑罰の実態」(『近世刑事訴訟法の研究』)及び『旧事諮問録』に求めている。

しかし,この史料は江戸時代の一時期,幕末の4年間の統計資料であって,江戸時代すべてに当てはまるはずもない。江戸時代は約270年間の長きにわたっている。それを幕末のわずか4年間,しかも尊王攘夷運動から倒幕運動へと世の中が大混乱している時期である。江戸時代の中期から後期にかけての安定期と比べて,時代背景・社会情勢がまったく異なっているのだ。

ボツマンは,時代背景を考慮して言及していない。時代背景が異なれば,人々の意識も社会意識も異なるのは当然である。

最後に,ボツマンは巻末に膨大な参考文献を挙げているが,石井良助『江戸の刑罰』よりの孫引き的な記述が多く,それに基づいていると思う。

posted by 藤田孝志 at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月19日

『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』

多くの史料や書籍を読み深めていくとき,著者の分析や考察のレトリックに誤魔化されて本質を見失ってしまうことがある。このレトリックの罠にはまらないようにするためには自分の考えを構築させながら読み込んでいく必要がある。
論理の破綻が容易に見えるような文章,資料の曲解,歪曲した論法などは論外であるが,厳密な構成による論理に対しては注意深く検証しなければ,翻弄されてしまう。

自己主張の強い独断的な論法は自己矛盾が散見しており,参考にもならない。そのような文章ほど,自己正当化のために他者の主張や意見を否定ばかりして,しかも紋切り型のワンパターンな批判を繰り返すだけで,ただの「イチャモン」の域を出ない。

だが逆に,多くの資料を徹底的に分析し,多角的な視点と論理の一貫性により考察した「論文」や「論考」は読み応えがある。まるで推理小説を読み解くようなおもしろさがある。誰だったか忘れたが,難解な哲学書であっても推理小説のおもしろさがある,それは推敲に推敲を重ねて練り上げた文章だからだと言っていたが,まったく同感だ。


偶然にネットで見つけて注文したのが,本書である。従来の部落史とは異なる視点から書かれている論考で,読んでみたいと思った。

本書は「論文」の体裁をとっているからだろうが,まず論証のための「引用」が非常に多い。外国人の「論文」は根拠を提示することが厳密さの証明であることから,とにかく参考文献・引用文献の原注が多い。本書も,これでもかというほど原注が細かい。しかし,本書の5分の1にもなる参考文献と原注は,それだけでも十分に参考になるし,考察のヒントをあたえてくれる。

ただし,「検証」という面では一貫性に疑問を感じる点もある。テーマの論証が多岐に渡っているからかもしれないが,引用資料の比較検証が不十分のままに論拠としている感じがする。例えば,被差別民と行刑役については,それだけで相当の文献があるはずだが,一部しか参考・引用としていなかったり,被差別民の生活や支配形態は地方によって異なる面を追究していなかったりする。


『血塗られた慈悲,笞打つ帝国−江戸から明治へ,刑罰はいかに権力を変えたのか?』
(Punishment and Power in the Making of Modern Japan )
ダニエル・V・ボツマン(Daniel V.Botsman)

本書は,刑罰と監獄について,江戸から明治まで,各時代の現実に即して丁寧に検討した歴史研究である。刑罰から社会秩序の構築を考察しようとする方法論などミシェル・フーコーの「監獄の誕生」からの影響は明らかであるが,それだけでない。江戸時代の社会秩序の維持に身分制度が巧妙に利用されている点を解明している。つまり,社会秩序の維持に被差別民の役割を不可欠なものとして位置づける一方で,自らは刑罰に直接手を下すことなく,むしろ「慈悲」により支配しようとする重層的な社会構造を構築してきた江戸幕府の意図を読み取っている点で興味深い。

武士が直接に手を下さず,なぜ被差別民にさせたのか。
それは,「刑罰を効果的に晒すのは確かに有益だが,名君という武士のイメージを守るためには,慈悲を生かした様々な戦略とのバランス」が重要だからである。残虐性と慈悲といった両面が徳川幕府の政治政策としてあり,名君がむごさを与えている印象を薄れさせるためには,被差別民の役目が重要だったのだ。刑罰に関わる作業や引き回しやさらし首の番人のような役は,被差別民が担っていた。そして,刑罰をゆるめる「慈悲」の沙汰は武士の権限であった。

治安維持の側面から被差別民の役割を考察することは重要であると思っていたので,本書を読みながら少し考えてみたいと思っている。
『日本近世行刑史稿』はぜひとも読んでみたいと思った。


日米修好通商条約の「治外法権」(領事裁判権)が,江戸時代の拷問・刑罰制度に対する欧米列強の恐怖による要求項目であったこと,それゆえ条約改正の絶対条件が日本の刑罰制度の改革であったこと,この歴史的背景と経緯を詳しくまとめているのが本書である。

日本の過酷な刑罰制度は,ペリー来航以前からヨーロッパに十分に(誇張されて)伝わっていた。日本を含む極東を旅した多くの西洋人が故国に書き送った報告書や旅行記に,戦国時代末期から江戸時代を通じての「過酷で残虐な刑罰」が紹介されていた。

1663年に出版されたフランソワ・カロンおよびヨースト・スホーテン著『日本,シャム王国誌』の英訳には,「彼らの刑罰は,火あぶり,焼殺,磔と逆磔,牛四頭を使った牛裂き,および油や湯での釜煎りである」と列挙されている。…他の文献には,ごく些細な窃盗でも死刑の対象になると記されているし,さらに「腹部を切り開く」ことによる「合法的自殺」という明らかに非キリスト教的な習慣がほぼ例外なく取り上げられている。

旅行記を読んだモンテスキューも『法の精神』で江戸時代の日本の刑罰を取り上げている。

さらに,幕末から明治初年に日本を訪問した多くの外国人は「攘夷」に遭遇し,日本の「血なまぐさい刑罰」を目撃することになる。「攘夷」を実行した日本人の処刑の場面を見た彼らは,その報告を欧米諸国に頻繁に届けた。

私も幕末期の写真集を数冊持っているが,清水清次の処刑図やさらし首などは残酷さを感じさせるに十分だ。
また,岡山藩の藩兵が神戸郊外で起こした外国人発砲事件では,責任者の切腹を欧米外交官の目の前で行っている。(
神戸事件

さらに,その数日後にはフランス水兵の一団に発砲する事件があり,土佐藩士20人が切腹を命じられている。(死亡したフランス水兵11名と同数が切腹後は,フランス外交官は処刑を中止させている)

欧米列強,中でもイギリスは,日本が平等な条約を結ぶに足りるだけの文明国であることを立証できない限り,現在の条約を改めるのに同意する気のないことが,日本側にわかってきたのだ。そうなると,問題になってくるのは刑罰と司法制度である。白人が磔になったり切腹を強要されたりする不安が残る限り,治外法権は絶対に撤廃できない。


本書で気になったのは,1章から4章までは江戸時代の刑罰制度に関連して被差別民の役割と存在理由を考察しているが,5章から7章の幕末から明治中期にかけて日本の刑罰制度の改革を考察している中で,被差別民がどのようになったかについて分析も言及もなされていないことだ。

拷問・刑罰(処刑)の実行役であった被差別民が,すべての責任を負わされて解雇されたと考えるのは短絡的である。拷問や処刑,(晒しの)見張り役,引き回し役を行う被差別民に外国人の嫌悪を集中させ,彼らを賤視の対象にすることで,政府は外国人の目をそらそうとしたと考えるのも早計と思う。それほど単純に,政府の思惑どおりに,外国人のみならず民衆までもが,それまでと異なった認識に早々となることができたとは思えない。
また,被差別民がそのまま警察官になったとも思えない。中には,番非人などが警察官になるケースもあっただろうが,ほとんどは下級武士が任命されている。

幕末から明治にかけての動乱期をもう一度詳しく分析・検証してみる必要がある。
大政奉還により江戸幕府の支配機構が崩壊した江戸で,各藩の大名が江戸屋敷を引き上げてそれぞれの領国にもどった後,江戸の町はどうなっただろうか。町人たちの生活はどうなっただろうか。そして,本書で治安維持の一端を担った被差別民はどうなっただろう。

私は,解放令の理由や背景などから考察すべきであると考えている。

posted by 藤田孝志 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

友人の論文

水本正人さんから『部落解放研究』(191号)に掲載された論文が送られてきた。

【伊予小松藩における「かわた」の尋ね方・召捕り・留置について】と題された,最近の水本さんが研究テーマとして取り組んでおられる『伊予小松藩会所日記』に記述された被差別民に関する史料分析の成果をまとめられた論考である。

不義理ばかりの私とちがって,水本さんの律儀さと真摯さは敬服に値する。彼の人間性を象徴している。
それは,研究成果にも表れている。史料を丹念に読み解き,分類しながら整理し,分析と考察を行っていく。水本さんならではの仕事だと思う。

本論文の内容については,後日コメントをしたいと思っているので,ここでは書かない。ただ,愛媛の部落史に関しては私もそれなりに史料を読み考察もしてきたので,水本さんが明らかにしようとしていることの重要性は十分にわかっている。

だが,四国の各藩には,それぞれ独特の支配体制であったと考えている。独自性と共通性を解明する必要がある。


着実に自分の研究を深め,その成果をまとめている水本さんに比べて,自分の不甲斐なさを痛感する。私もくだらないことに惑わされず,自分のすべき事に専念しないといけないと,諭された気がする。

水本さんの旺盛な研究心,精力的な研究活動,すべての方々から学ぼうとする真摯な研究姿勢,他者に対する謙虚さ,これらが彼の地道で着実な研究を支え,確実な成果を生み出しているのだと思う。

私も水本さんを見習い,今年は自分の研究成果をまとめたいと思う。

posted by 藤田孝志 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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