2011年03月16日

卒業

本日は卒業式だった。
泣くまいと思っていたが,やんちゃ坊主の号泣する姿に,3年間の思いが溢れ出て,涙が止まらなくなった。走馬燈のように…とはよく使われる言葉だが,式の間中,一人一人のことが,一つ一つの出来事が思い出され,過ぎ去りし時の流れが二度と戻らないことを実感した。

答辞に込められた彼らの月日の想い出は,その一つ一つが私の思い出でもあった。

色紙に書かれた彼らからの感謝の言葉,手紙に綴られた一言一句が,彼らの本当の気持ちを伝えてくれた。

それらを読みながら,教師としての喜びと使命の重さを強く再認識した。

いつも色紙に書く座右の銘がある。【至誠は天に通ず】

人の思いは,真摯に念じ続ければ,必ず実現する。

裏切られようと,欺されようと,背を向けられようと,信念をもって決して諦めることなく,ひたすらに信じ続け,伝え続けることこそが教師の使命であると,あらためて教えられた気がする。


夕刻,校長と卒業した彼らのことをいろいろと話し合っていたとき,ふと脳裏を元徳島商業高校教諭の岡本顕史カ先生の書かれた『Y子は獅子になった』の一節が蘇った。

「私は勤めだした時,どちらを向いて仕事をすれば良いのでしょうか。」
「どういう事でしょうか。具体的におっしゃって下さい。」
「生徒の方を向いて仕事をすれば良いのか,それとも学校の方を向いて仕事をするべきなのでしょうか。」
「君はどう考えますか。どの様にしようと思っていますか。」
「いつも生徒の方へ顔を向けて仕事をしようと思います。」
「結構です。君の考えどおりにして下さい。教育は教師の自主性やロマンがなければ駄目だと思います。」

教師もまた,特に教師に対する管理が厳しくなり画一化した教育体制や教育方針がトップダウンで要求される現在の状況においては,生徒よりも学校の方を向いての教育が優先され,この大切な教師の姿勢が忘れられることがある。

生徒の多様な個性を「教育」「指導」という名目で抑圧しているのではないだろうか。

私は,果たして卒業生の色紙や手紙にあったような感謝される教師であったのだろうか。生徒から信頼を受ける教師であったのだろうか。

卒業生は,私に教育の原点を思い起こさせてくれた。

posted by 藤田孝志 at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月22日

自己実現

偶然にnet surfingの途中で見つけたのが「注目の人」というsiteだ。

無断での紹介だが,別に悪意あってのリンクではないから許してもらえると思うので,勝手に紹介させてもらう。

学校という世界は狭い。だから,生徒にはできるだけ広い世界・異種多様な世界を提示することが大切だと思っている。古今東西の出来事やエピソード,本の世界だけではなく,現在を生きている人々,特にTVや雑誌で活躍している人たちの別の側面であったり素顔であったりが,これから自己実現へと向かう生徒には貴重である。

その意味で,このsiteに登場する人たちが語る自己実現の道程はよい教材となる。


この「注目の人」に登場する人たちの人生行路を読みながら,すべての人間には「自己実現」という人生ドラマがあり,それは水平社宣言の説く「人は尊敬すべき」であるとあらためて思った。

いかなる人間であっても,いかなる人生であっても,それはその人間にとっての二度とない人生であり,かけがえのない自己実現である。
他者がその人の自己実現を安易に論じたり非難したりできるものではない。

また,自らの歩んできた人生を決して卑下すべきではないと思う。
人生行路において失敗や挫折があり,後悔や悔悟の思いがあったとしても,辛酸も悲哀も含めて,それも自己実現の糧であったと思う。

私は無神論者であるから,キリスト教徒や仏教徒のように神や仏に縋って赦しを請うことも,自己正当化の方便に使うこともしない。人間として如何に生きるか,如何に在るか,人と如何に接していくかを自らに問いかけながら生きる。

自分の言動を顧みることもせず,悪いのはすべて他者であるなどと自己正当化に終始することは烏滸がましくて,とてもできない。まして,自分を被害者のように,悲劇の主人公のように,同情や哀れみを引く言動を工作する卑怯な手法など取りたいと決して思わない。
なぜなら,自分自身が「偽っている」ことを知っているからである。その自己「欺瞞」を私は認められないからである。

posted by 藤田孝志 at 14:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月06日

思考ツールと教育改革

ここ数年,学校現場においても「ビジネスツール」が援用されてきている。
例えば,PDCAサイクル,OJTなど学校経営では不足しがちな経営戦略的視点やマーケティング発想が取り入れられている。この背景には,多様な生徒の実態と時代に即応した学校教育の構想が求められているからだろう。端的に言えば,旧態依然の学校経営では時代後れということだ。

学校改革の必要性は十分に認識しているし,その方策としてビジネスツールの有効性も納得しているが,その一方で,学校組織独特の仕事慣行や教師独特の思考や行動を踏まえた改善でなければならないと考えている。

要するに,効果的な「思考ツール」を採用しようとも,それを使うのは「各個人」であり,その「個人」の考えが強く反映する。ツールはあくまでも使う人間にとってのツールでしかない。使いこなすことができ,活用することで成果が上がれば,いかなるツールでも構わない。
別に,これでないとダメだという類のものではないと思う。


今日の読売新聞に,東レ経営研究所特別顧問の佐々木常夫氏が岡田尊司氏の『なぜ日本の若者は自立できないのか』について書評を書かれていた。

いじめ,不登校,高校の中退,校内暴力の急増などは子どもの特性を無視した画一的教育システムに本質的問題があると筆者は問題提起している。
その結果,授業に付いていける子どもの割合がいわゆる七五三という小学で70%,中学で50%,高校で30%となっている。
多くの子どもたちが毎日苦痛と劣等感を抱きながら学校に通っていることがさまざまな問題を起こし子どもの自立を妨げている。実技科目が得意な子にはそれを選択させたり,授業についていけない子にはそれを救う方法をとってやるべきだという。

「画一的教育システム」の問題性は昔から指摘されてきたし,さまざまな教育改革・学校改革が試みられてきた。私も現在の「教育システム」に本質的な問題があると考えているし,現在の文科省が進めようとしている教育改革に対しても疑問をもっている。

岡田氏の本書を読んではいないが,他の著書から岡田氏の特別支援教育に関する理論と提言に共感したり示唆を受けたりはしている。個々の生徒に対する多角的な対応の必要性も十分にわかる。それを妨げているのが現在の教育システムであるという指摘もわかる。

だが,佐々木氏がまとめている岡田氏の提言を現行のままに実行できるとは思っていない。理想論とは思うが,すぐには不可能だろうし,子どもたちの個性や特性に特化した教育カリキュラムを個々の学校で対応しようとすれば,現在の教員定数の3倍の人材が必要である。財政難により教員数の大幅削減を進めてきた文科省や各地方自治体である以上,無理である。
また,特性に特化した教育を受けてきた子どもの進路保障に対応した高等学校の設置,さらに大学,企業という「受け皿」が整備できるだろうか。

スポーツなどの実技科目に興味を示して取り組むが,普通教科の授業では騒ぐか爆睡する生徒に対応できない現状が克服できるとは思えない。

多様な特性を発揮できる教育現場が必要であると同時に,集団規律や社会秩序を維持できるだけの方策が求められている。個性という名目で勝手が許される自由を認めては学校という集団組織は崩壊するだろう。


さまざまな個性や特性をもつ生徒への対応,すなわち授業や行事,日常の生活において彼らを育成するための「ツール」として,学校や教師が身に付けて活用したり,学校改革・教育改革の方法論となるのが「思考ツール」である。

posted by 藤田孝志 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考ツール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

「部落民」とは

約13年ほど前に出された『「部落民」とは何か』(藤田敬一編)をあらためて読み返している。それは,私の中から今再び,この問いが浮上してきたからである。
言葉として自明のこととして使ってきた「部落民」に対する定義も含めて,歴史的背景がある程度は理解できるようになった今,逆にこの問いが重くなってきた。

本書は「第14回部落問題全国交流会」でのシンポジウムの記録である。

最初に事務局を代表して藤田敬一さんが問題提起をされている。

「部落・部落民・部落差別」というと,…部落問題をめぐる状況を考えると,どうしてもこの三つの問題に行き着かざるをえないのです。それは第一に「部落とは何か」,「部落民とは何か」,「部落差別とは何か。その実情はどうなっているか。どうすれば部落解放が達成できるか」,「そもそも部落解放とは何か」といった基本的な問題がほとんど問われないままに今日まで来ているという事情にかかわります。なぜ問われないかということも,実は重要なテーマの一つになりえます。こうした問いについて自分の言葉で考える必要を感じない人や,問わなくても済む人もいるというのが現状ではないでしょうか。

藤田さんの指摘する「実情」は,現在も変わることなく,むしろこの傾向はより強くなっているように感じられる。法が切れ,同和から人権へと教育も社会啓発も移行して以後,大幅な予算の削減を背景に,組織と場の縮小と改編,研修や啓発,授業の縮小と疎隔が行われてきた。

「問わない」ということは,「問題にしない」ことではない。
不十分なままに曖昧にしているだけで,決して「解決」に至っているわけではない。

第二に,部落解放運動や同和行政,同和教育・啓発の場における対話の途切れがいまなお続いているという事情の背景に,この三つの問題が潜んでいるということです。

こうした対話の底には,「差別の痛みは被差別者以外にはわからない」「部落民でない者に何がわかるか」という主張と,それに対して反論もしくは議論しようとする姿勢の欠如があります。それが対話の途切れを生んでいるのです。

二つめに,差別する人がいるから差別があるという常識は牢固であって,差別する人がいなくなればいい,だから正統かつ正当な知識を注入することが教育・啓発の課題だとする考え方があるけれど,それで本当にいいのかどうか議論してもらいたいのです。私は,差別は関係の問題として考えていくしかないのではないかと思っています。
…差別は,差別する人がいるからではなくて,人と人との関係のなかに存在している。つまり差別とは関係なのです。

この藤田さんの考えは,以前から私が思っていたことであり,提言してきた理論である。私も,差別は関係性の問題であると考えている。

差別者と被差別者の関係性ではない。差別者が自分の差別,差別言動に気づき,反省して改めれば,差別はなくなるのだろうか。

差別−被差別の二律背反関係,対立構造については,今までも言及してきたことなのでここでは述べない。(「二律背反と画一化」

2つだけ提起しておきたい。

差別者はいつまでたっても「差別をする差別者(の立場)」なのか。差別をしなくなると,何と呼ばれることになるのだろうか?逆のことが,被差別者にも言えるだろう。いつまでも「差別を受ける被差別者(の立場)」なのだろうか?

差別者の定義とは何か?差別言動を行う者が差別者なのか?差別意識をもっている者が差別者なのか?

差別−被差別の関係性ばかりにとらわれてしまうと,差別問題の本質はわからないだろう。
また,「正統かつ正当な知識を注入すること」だけで,部落差別が解消するとは思わない。

posted by 藤田孝志 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 部落問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

汝自身の道を行け

毎年この時期になると,焦りと不安に苛立ったり,自暴自棄になったりする生徒が増えてくる。初めて迎える受験というプレッシャーは相当なものである。

今月末には私立高校のT期入試,来月初めには公立の自己推薦入試,その一月後には公立一般入試と続く,受験のチャンスが増えたとはいっても,目指す高校によっては逆にハードルが高くなっている。
自己推薦入試制度のメリット・デメリットの格差は大きい。全国的な傾向は「廃止」であり,本県も見直しに入ったが,新しい受験制度がよりよいものになるとも思えない。本格的な教育改革が必要と思っている。

生徒は,卒業という巣立ちの前に,大いなる試練に立ち向かう。


生徒が多様な人生行路に旅立つ姿を見ながら,果たしてどのような人生を歩いて行くのだろうと,いつも思う。各人がその人生において満足する日々を過ごし,自己実現を成し遂げてもらいたいと願う。

卒業生に贈る言葉として,私が好きな言葉がある。

【汝自身の道を行け,そして人々の語るにまかせよ】

この言葉を知ったのは,若き日に傾倒したマルクスの『資本論』序文である。

私は科学的な批判ならどんな批評でも歓迎する。いわゆる世論なるものには少しも譲歩しなかったのであるが、その偏見にたいしては、依然として偉大なるフィレンツェ人の格言が私のそれでもある。

   Segui il tuo corso,e lascia dir ie genti!
   汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ!

この「格言」は,ダンテの『神曲』の「汝は、汝の道をゆけ,そして人々にはその言うにまかせよ」である。

人間は,つい周囲や世間の価値観や風評を気にしてしまう。人の目を気にする。だが,時にはそうした世間や人の目を気にせず,自分の目指す道に向かい,そのために必要であるならば,時に回り道をしたり,時に型破りな言動を行ったりしても構わない。

ただ,自分の行為や言動によって他者に迷惑をかけたり,法から逸脱したりせず,自己責任を果たすならば…である。


自分のすべきことが明確に見えていれば,周囲や世間など気にしないものだ。人からの評価など,どうでもよいと思うものだ。なぜなら,人に評価されることや賞賛を受けることが目的ではないからだ。

周囲に理解されることや高い賞賛を得ることを目的とするならば,周囲からの評価や評判が気になって仕方がないだろう。周囲から見向きもされないことは屈辱であり,周囲が理解しないことが許せなくて,いつしか自分ではなく周囲が悪いと思い込み,理解しない周囲を攻撃するようになる。口先とは裏腹に,その言動には恨み辛み,皮肉とイヤミ,自己正当化が見え隠れする。


人のことが気になって仕方ない人間には,好きなように言わせておけばいい。人の評価は所詮,人がする評価であって,人の評価によって自分が生きているのではない。
辛辣な酷評の真意が善意からの貴重なアドバイスであることもあれば,悪意からの揶揄と愚弄でしかない場合もある。その評価がいかなるものであるかは,その人間の言動をよく知れば,内容と目的が自明のこととなる。

自分の人生を実現していくために,必要な助言に耳を傾ける謙虚さがあれば,無意味で無駄な雑音には耳を塞いでおけばいい。

捻くれた人間は,捻くれた評価や扱き下ろした文章しか書かない。イヤミな性格の人間は,いつまでたっても,何を書こうが,性格と同じく皮肉やイヤミの表現が随所に表れる。自分の書く文章や使う表現が他者を揶揄・愚弄していることや,他者を不快にしていることさえ気づかず,またそんな文章を平気で(意図的に)書くことができる人間の言動など捨ておけばいいのであって,相手にする価値もない。

自分が非難する相手の名前さえ間違って記述する程度のお粗末さ,バカバカしくて話にもならない。


この格言は,マルクスの自らに対する自戒のことでもあったと思う。

学問には坦々たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。

同じく『資本論』序文の言葉である。

私がマルクスに傾倒したのは,高校時代の先輩と恩師の影響が大きい。経済学よりもマルクス主義哲学に興味をもち,概説的な入門書から始め,マルクス・エンゲルス著作集から『ドイツ・イデオロギー』『経済学・哲学草稿』『ヘーゲル法哲学批判序説』『哲学の貧困』『ユダヤ人問題によせて』『フォイエルバッハに関するテーゼ』などを読んだ。『経済学批判』は読了できたが,『資本論』は読み終えることができなかった。
マルクス主義哲学に関しては,恩師に勧められた柳田謙十郎の著書がわかりやすかった。以後,手当たり次第に読み耽ったが,次第に哲学そのものへと向かった。
いつの日か機会があれば,『資本論』を通読したいと思ってはいるが,たぶん書棚の塵に埋もれてしまうことだろう。

しかし,マルクスのこの言葉は至言である。極貧生活の中にあって,ひたすら学問研究に没頭した彼の信念であった。真理の探究こそ,彼にとっての目的だった。彼の気概と探求する姿勢は学ぶべきである。

マルクスは,若い頃より歯に衣着せぬ辛辣な批評を書いてきた人物である。だが,それは「学問」「論考」に対する厳しい批判であって,学問や論考と関係のない論者の人間性にまで論じてはいない。

実名をもって文章を出版したり公開したりしている人間は,良識と節度を守っている。不確定なことを独断・憶測で書くことは決してしない。なぜなら,他者の名誉や人権に配慮することは当然だからである。それすら守らず,自分勝手な誹謗中傷を書くのは,校正のないネット上の記事か,週刊誌などのゴシップ記事の類だろう。


私の友人や知人,たとえば吉田栄治郎氏や石瀧豊美氏,山下隆章氏などの研究姿勢は,自らがすべき仕事(研究・活動)を選び,地道に,着実に成果を積み重ねている。他の分野における友人や知人にしても,同じである。

先日,久しぶりに植村義昌さんと電話にて話したが,充電期間を楽しんでいる様子だった。2年後に活動を再開する目標を立てて,それに向けていろいろと情勢を見ながら準備をしているとのことで,それまではHPも休止するそうだ。

私も同じ考えである。今しばらくは,充電期間にしたいと思っている。地下にもぐって社会情勢などを注視しながら,自分の研究を続けていくつもりだ。
口先ばかりの号令をかけるだけで,一向に前へと進まないようなことだけはしたくないと思っている。イヤミや皮肉を書き連ねることで,逆に品格を下げるよりも,地道に自らの研究を積み重ねる方を私ならば選びたい。
そうすれば,たった一つの事象にすぎないことを誇大解釈するような独善的な発想には至ることはないだろう。まさに「坊主憎ければ袈裟まで」である。

posted by 藤田孝志 at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月21日

偏見の背景

ある若い女は,私に言った。
「わたくし,ある毛皮屋にひどい目にあわされましたのよ。預けておいた毛皮に焼きこがしを拵(こし)らえられて。ところがどう,その店の人はみんなユダヤ人だったのですの。」
しかし,なぜこの女は,毛皮屋を憎まないで,ユダヤ人を憎みたがるのだろうなぜ,そのユダヤ人,その毛皮屋を憎まないで,ユダヤ人全体,毛皮屋全体を憎みたがるのだろう。それは,彼女が,自分のうちに,反ユダヤ主義の傾向を,それ以前から具えていたからである。
…もし,ユダヤ人が存在しなければ,反ユダヤ主義は,ユダヤ人を作り出さずにはおかないだろう。

(サルトル『ユダヤ人』)

このサルトルの一文は,石瀧豊美氏の著書より教えられたものだが,「部落はこわい」の発想と同質のものであり,偏見や先入観の背景を端的に示している。

この「若い女」の発想,それは無意識であるかもしれないが,一度そのように思い込んでしまえば,それは彼女の中では矛盾しない確固たる事実となってしまっている。
この「思い込み」=「事実」(真実)という構図が偏見や先入観を形成してしまう。

一度思い込んでしまえば,以後はあらゆることが,その「事実」を証明する材料と化してしまう。反対のことも矛盾するできごとも,「思い込み」の前では無力である。如何様にも歪曲・曲解され,「事実」の証となり,「事実」はより強固なものとなる。だが,その「事実」はその人間にとっての「事実」でしかなく,その人間の単なる「思い込み」である。


このようにして形成された「偏見」「先入観」が差別の要因となり,人権侵害を引き起こしているのだが,この「若い女」のように,そのことに気づくことは少ない。

「偏見」や「先入観」は,人間をcategorizeする。「ユダヤ人」かそうでないか,「部落」かそうでないか…。その判断基準は「自分」でありながら,「みんなが…」と正当化の根拠と責任を他者に求める。

具体例など枚挙に遑が無い。
一部の教師の不祥事をネットのニュースで知ると,まるで教師全員がそうであるかのように教師批判を展開して恥じない人間もいる。全国にどれほどの学校と教師がいると思っているのだろうか。
サルトルの論法に従えば,その人間のうちに「反教師」の傾向が具わっているということになるだろう。これも「偏見」や「先入観」である。

先入観に固執した人間を「色眼鏡で見る」と表するが,まず偏見があり,それが先入観を形成し,その先入観にとらわれて物事を見るという意味である。

教師に対して偏見をもっている人間は,「反教師」という先入観から教師を見る。そして,教師に関するあらゆる事柄や出来事が,彼にとっては「反教師」の視点から判断が下されていく。まして教師に対する悪意や揶揄・愚弄の思い,攻撃の欲求が強ければ,それが目的となり,公正・公平な判断などできるはずもない。
「坊主憎ければ袈裟まで」である。あらゆるものが「教師」への攻撃材料と化し,意図的に独断と偏見で歪められて曲解・歪曲されていく。偏狭な精神の持ち主が自己正当化を繰り返す手法である。


世の中,実にいろいろな人間がいる。
自分の目線を変えることができる人間もいれば,自分の考えを絶対化し,自分の意と異なる者を排除する人間もいる。自分と異なる意見を認めることができない人間の視点は矮小である。
偏見や先入観がどれほど人間の視点を狂わしているだろう。偏見や先入観の「思い込み」が強ければ尚更である。

「目的のために手段を正当化してはならない」とは,私が常に思っていることである。
「目的」は人によって異なる。如何様にも大義名分を付加することはできる。理由付けもできる。自分勝手な理屈で「目的」を美化することもできる。そのような「目的」によって「手段」が正当化されれば,誹謗中傷も揶揄・愚弄も,さらには人権侵害の言動までもが正当化されてしまう。

Demagogieを可能にするのがネット社会の悪しき弊害である。それがいかに「虚偽」であっても言葉一つで「事実」とされてしまう。偏見や先入観をもつ人間が駆使する情報操作によって,いとも簡単に虚偽がさも事実であるかのように伝播されていく。また,それを知って作為的に行う人間もいる。それは故意による人権侵害である。

そうした行為でしか歪んだ心情を満たすことができないのは,小心者の姑息な手段でしかない。タコ壺の中から出ることもしない言動に,犬の遠吠えにも似た情けなさを感じる。


偏見が形成される要因はさまざまであるが,個人的な体験が大きな比重を占めている場合が多い。しかし差別の克服は,その個人的な体験を自ら検証することで,自らの偏見や先入観に気づき,自らの意識を変えていくしかない。

「ユダヤ人」ではなく「そのユダヤ人」であることに気づくことが重要である。自らの内部に,なぜ「ユダヤ人」に対する偏見が強くあるのかを問うことで,自らがもつ偏見の背景が見えてくる。

個人的な体験が強烈であれば,その反動から「思い込み」を正当化しようとする。特定の人間に対する恨みや憎しみをカモフラージュするために,正当化するために,その人間を含むカテゴリに非難の矛先を拡げる。

偏見や先入観がどのように自らの内部で形成されたか(要因),それが個別の事案であるか全体化(傾向)の可能性があるものかどうか等々を客観視すべきである。個人的な感情でしかないことを無理矢理にこじつけて一般化させることが「風評被害」を生み出す。

自らの言動が新たな偏見や先入観を他者に与えることになり,人権侵害を引き起こすことにも荷担することに気づきもしない。独りよがりの偏見や先入観ほど迷惑なことはない。

posted by 藤田孝志 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

人の評価

人の評価ほど気ままなものはない。自分にとって有益かどうかで,簡単に手のひらを返したような対応をする人間も多い。

人は自分がしてもらった恩義など簡単に忘れるが,人にされた非難や攻撃,自分の意に反した対応などは決して忘れることはない。
思うようにならなければ,自分の主張が通らなければ,いかに不合理で理不尽なことであろうが,相手の言葉尻をとらえて,筋の通らないことを無理矢理にこじつけてでも通そうとする。その際には,恩義や感謝の念など忘れてしまっている。


問題となっている「Monster parents」など,その最たるものだろう。
教育現場を知らない人間には理解できないだろうが,信じがたいほどの「現実」がある。昔にもいたであろうし,学校は社会の縮図と言われるように,現実社会の中にいる信じがたい人々の生態が凝縮されているだけかもしれないが,この十数年の間に明らかに増加してきたように感じる。

「社会の常識,学校の非常識」と言われる側面は確かにある。時代後れの閉鎖的な社会,古い規則と体質が今も根強い世界であることは否定できない。しかし,逆に一般社会では非常識であり理不尽な要求であることを,学校現場に通用させようと求めてくる生徒や保護者は増えてきている。

たとえば,給食費などを支払わないで平気な保護者は増加傾向にあるが,必ずしも経済的に苦しいことが原因とも思えない。もちろん,現在の不況の深刻さや経済格差の影響により経済的に困窮している家庭も増えている。
しかしその一方で,新車に乗り,親子ともに携帯電話を所持し,遊興費も十分に使っているにもかかわらず…,教材費や給食費,修学旅行の代金まで支払わず,そのまま卒業して踏み倒す人も多い。公表されないだけで,相当の人数と金額になっている。


学校現場の荒廃を教師の責任だけに押しつけて批判する人間ほど,現実の実態を知らない。現状を見聞もせず,マスメディアからの風聞や,本・雑誌からの受け売りで,尤もらしいことを述べることは,自らの軽薄さを露呈しているだけだ。

青森県の小学校教師が保護者を裁判に訴えた。このことに関して,マスコミ等が賛否両論の論評を展開している。
新聞やネット上でのさまざまなコメントを読みながら,いったい彼らの幾人が学校現場を実際に見聞し,内実を正確に把握しているのだろうと思う。教育問題には必ず登場する尾木氏も含めて教育評論家と称する方々が,全国各地の学校現場のさまざまな実態と課題,問題性を,実際にその場を何日間・何ヶ月間と共有した上で,論評しているのだろうか。
センセーショナルな表題を付けた教育問題に関する本を出版しているが,その表題からして「重箱の隅」を全体化して,マスコミ受けを狙い,世間の興味を引こうとする姑息な手段である。

彼らのコメントは,最初から「教師非難」を意図する人間にとって格好のネタになるのだ。つまり,結論は最初から用意されていて,それに上手く辻褄の合う「ネタ(材料)」を探している人間がいるのだ。その論旨には公正も公平もない。あるのは,教師を非難したいという目的だけであり,コメントを通して自分への評価を高めたいだけである。事実から正確に論旨を展開して結論を出すことはない。

先に「結論」ありきで,その「結論」を正当化するために,都合のよい材料(ネタ)を集めて,さも正論のように述べているだけである。

posted by 藤田孝志 at 05:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 断章と雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

今年の抱負:総括と決断

今年は私にとって「決断」の年となるような気がしている。総括・変貌・発展に向けての決断をしなければならないと思っている。そのために,昨年末から身辺や自分自身に関する「整理」をしてきた。

PCやserver環境も整理したが,その途上で一部のデータを消してしまい,初めて復元ソフトのお世話になってしまった。廉価版のソフトだが,思っていた以上に「復元」ができ,満足している。90%近くはそのままに復元可能ということがわかったが,逆に考えれば,PCや外付けHDDなどを破棄する際は十分に対応しなければならないということだ。

昨年末からこの3連休で,数台のPCとserverのメンテナンスは終了した。
新たに外付けHDDや周辺機器も買い換えて,Windows live に対応した設定にした。特に,メール設定は長くOutlook Expressを愛用してきたが,live メールに換えることにして移行した。最初は表示の違いに戸惑ったが,後継だけあって移行も自動的に行ってくれたし,慣れるとシンプルで使いやすい。

昨年の後半から使い始めたEvernoteなどいくつかの「クラウド」も本格的に活用している。情報の一元管理と作業の連携が可能になり,効率が随分と改善された。情報やデータをまとめるのに最適なツールである。種々のソフトと組み合わせれば機能も拡張できるので,まだすべてを使いこなすまでには至っていないが,いろいろと試してみたいと考えている。

「お金で時間を買うことができる」とは,確か渡部昇一さんの言葉と思うが,一理あると思う。必要な投資と思えば,時間の少ない人間にとっての効率化は必要である。特に職場をもち,そこまでの移動時間もかかる人間には時間はとても重要である。

無駄なことや無意味なことに時間を費やすことほど,精神的なストレスを生むことはない。雑音は思考を妨げる。目的や内容の異なるいくつかの仕事や作業を平行して行う者にとって,時間管理と作業計画は重要な意味をもつ。
今年は,task管理を徹底したいと思っている。


弊HPの改造も「公開」には至っていない。
全体の構成やcontentsの再構築などは終えているが,公開の時期をあひる企画と相談している。また,その間に書いた文章やBlogの記事を編集する作業や,今後の方向性と運営について考えているところもあり,「公開」には時間が必要である。

HPの更新をやめ,改造に着手してから数年が過ぎてしまった。いろいろな事情が重なってのことだが,つい先延ばしにしてしまい,時機を失してしまった感がする。

その最大の理由は,ネット社会への失望だと思う。私もあひる企画も,また当時HPを開設していた友人・知人の多くも,ネット社会に大きな期待を抱いていたのは事実である。見知らぬ人間,遠く離れた土地,老若男女を問わず,HPやBBSを通して語り合い,学び合うことができる。新しいコミュニケーション(交流)の場,情報発信の場,社会啓発の場として活用できる世界と思っていた。

もちろん,意見や見解,立場の相違はある。主義・主張が相反することもある。だが,そうであっても,目的が同じであれば歩み寄ることは可能であると思っていたし,議論によって互いの知識や認識,理解が深まればよいとも思っていた。

しかし,顔の見えないネット社会は,匿名性の社会であり,モラルもルールも不完全な世界であり,誰もが自由に何事も発信できる「無法地帯」の側面をもっていた。
一面識もない他者に対して誹謗中傷・揶揄・愚弄の言説が平然と発信され,真実も事実も確認できないことを逆手にとって故意に捏造した情報を垂れ流す。
そんな悪意ある人間がこの世に存在しているのだと思い知らされた。だから,差別や人権侵害が解消されないのだとも痛感させられ,人間が人間を差別するのだと強く思った。

と同時に,人権問題に関するネット上での動向に活発化と拡がりが見られないことへの苛立ちもあった。その背景には,法が切れ,同和教育から人権教育への移行があり,それらが深化・発展の方向ではなく拡散化・弱体化・曖昧化に進んだことがある。
この10年間の動静は,必ずしも良き方向にばかり進んできたとは言えない。

これら様々な外的・内的な諸事情が,個別に人権問題に関わるsiteを運営していた友人や知人にも大きく影響し,意欲をなくしていったのも事実だろう。

私も同じであった。


今年の年賀状の中に,長く会っていない島根県の友人からのものがあった。
彼とのつながりは,全同教が主催する研究会に私を講師に彼が招いてくれたことに始まる。そのときから年に幾度となく島根の各地に講演に呼んでもらった。彼を通して多くの方と知り合うことができた。

もう何年も会っていない彼の年賀状には,次のような言葉が添え書きされていた。

「先日,藤田さんの資料を参考に渋染一揆の学習会をしました」

この言葉を読み返しながら,彼との日々を思い出し,人とのつながりと思いの深さを噛み締めることができた。

どれほど時が過ぎようとも,私の拙い資料や教材を活用してくれる人がいる。
彼と同様に,たとえ見知らぬ人であっても,弊Site(HPやBlog)を訪問して,使える資料などがあれば利用してくれる。参考にしてくれる。私の見解を考えてみてくれる。
これだけで十分ではないかと思った。

部落差別だけでなくハンセン病などの人権問題や差別問題に関して,正しい知識と認識をもつことも大切だが,何よりも差別解消・人権擁護の活動に主体的に関わっていくための素地と意識を育成することが人権教育であると考えている。

そのための知識であって,知識だけで差別が解消するとは思っていない。知識があっても正しい言動ができなかったり,他者の人権を侵害したり,他者を揶揄・愚弄したりしては,本末転倒である。

私は,教師という自らの立場から,原点に立ち戻り,部落史や人権問題に関わっていこうと決意する。その手段の一つとして,弊Siteを運営していきたいと思う。

posted by 藤田孝志 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時分の花 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

選択

中学3年生にとって新年を迎えるこの時期は進路を選択する決断の時でもある。どの高校を選択するか,将来の方向を決める時である。夢の実現に向けた試練の時でもある。


井上ひさしの『青葉繁れる』に,次の言葉がある。

ある選択をするということは、その選択によって生まれるはずのマイナスをすべて背負うぞ、ということでやんしょ。

人間は誰もが,その人生において幾度かの大きな「選択」と,日々の生活の中で小さいけれど大切な「選択」を決断しながら生きている。その選択により,時に満足しながら,時に後悔しながら,次なる選択をして生きる。

「選択」の結果は必ずしも本人が望んだものではないかもしれない。プラスの結果を望んでもマイナスの結果に終わることもある。予期せぬ結果となり苦悩することもある。

この言葉にある「マイナスをすべて背負う」という覚悟ができるかどうかである。
何が生じるか,何が起こるか,予想できることもできないこともある。それらすべてを覚悟しなければ選択はできない。
自分だけではない。自分以外の反応も選択によって生まれてくる。好意的な反応も協力的な影響もあれば,反発も敵意も,邪魔も攻撃もあるかもしれない。それらマイナスもまた選択の産物であり,覚悟しなければならない。

振り返れば,多くの悔悟がある。まちがった選択もあったし,選択によって思いもよらぬ結果を招いたこともあった。後悔しても仕切れぬこともある。


今年も残り1日となり,1年を思い返せば,様々なことが蘇ってくる。新たな出会いもあれば,別れもあった。二度と会うことも適わぬ別れほど悲しく辛いことはない。
人間,いつしか死ぬものだが,残された者には思い出とともに,やり直せぬ悔いが心の奥底に沈む。

生きていればまたいつか会えると思っていたことが,どれほど軽薄で自分勝手な判断であったかを,死に際して思い知らされる。

その思いをあらためて痛感させられたのは,本年9月に逝去された好並隆司先生との別れである。
好並先生との直接の出会いは,もう十数年以上も前になる。確か,岡山部落解放研究所に資料を借りに訪ねたときにお会いしたのが最初ではなかったかと記憶している。そのとき,若林先生と好並先生が渋染一揆の「渋染」について議論をされていて,私にも意見を求められ,いろいろとお話をさせていただいたことを覚えている。

とても気さくな人柄で,誰に対しても温和に対応されたことが印象に残っている。探求心旺盛な学究肌で,地道に文献を読み込んで,一字一句から考察する姿勢は,さすが中国政治思想史の研究者と思った。

それ以来,岡山県同和教育研究協議会の解放令反対一揆研究会など部落史研究や部落問題に関わる会合や研究会,岡山部落解放研究所などで,親しく接していただき,多くの教示と助言をいただいた。

私が同和教育・人権教育の担当を離れ,県同教の活動からも離れて以来,また県解放同盟の分裂の余波もあって,お会いする機会がないままに数年が過ぎてしまい,突然の訃報を聞くことになってしまった。

聞きたいこと,教えてもらいたいことがたくさんあったが,今では多くの課題だけが残ってしまった。

posted by 藤田孝志 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月11日

知的余生

歯医者の帰り,丸善書店にて目にとまったのが『知的余生の方法』(渡部昇一)である。

思想的には渡部昇一氏の考えに賛成できないところもあるが,彼の博学さと文献資料を読み込んでの考証学的論究からは多くの示唆をもらってきた。

渡部氏を知ったのは,やはり名著『知的生活の方法』であった。高校時代,恩師に紹介されて読んだ本であるが,学者の研究生活に憧れを抱いていたこともあり,とても刺激的な本であった。渡部氏の実体験に基づいてのアドバイスの数々,本を手元に置いて生活することのすばらしさなど,若い私にとって指標ともなった。

『知的生活の方法』が出版されて34年もの歳月が流れ,その後の指標ともなる本書が書かれたことが興味深く,買い求めた。

表紙カバーの裏書きに書かれている紹介文の中に,次の一文がある。

知的な生活を心がければ,素晴らしい人生を取り戻せる。「知的余生」とは,年齢を重ねても頭脳を明晰化し,独自の発想にあふれた後半生のことである。

【知的に生きることは,人生を何倍にも充実させる】
なるほど確かにそのとおりである。


本書には,ユングの言う「人生の午後三時」以後を生きるための「知恵」が書かれている。たた後半生を「生きる」だけでなく,創造的な充実感の中で「知的に生きる」ため方法が,豊富な教養と実体験から紡ぎ出された叡智として伝授されている。

少ニシテ学ベバ,即チ壮ニシテ為スアリ
壮ニシテ学ベバ,即チ老イテ衰ヘズ
老イテ学ベバ,即チ死シテ朽チズ

佐藤一斎『言志晩録』

…だが,こうして一生懸命に働いて定年を迎え,ではこれから何をやっていこうか,と考えた時,ハタと,何も学んでいなかったことに気づく。やることが思いつかない。仕事中に学んだことが,その会社や地位を離れた途端に,何の役にも立たないことに気づく。こういうことが多いのだ。これでは,壮にして学んだことにはならない。忙しく仕事をしているから,学んでいるように誤解しているだけで,決して学んではいない。仕事上の勉強を,自分自身の勉強と勘違いしただけなのだ。

耳に痛い言葉であるが,至言でもある。

教師の世界でも,本書に書かれているように,定年退職後に見事な第二の人生を生きている先輩も多くいるが,急激に老けてしまった方もいる。

私の恩師は,高校教師を退職後,専門の臨床心理学を生かして教師のためのカウンセリングセンターを開き,まるで松下村塾のように後進を育成されている。見事としか言葉がない。
彼を見ていると,私が高校生の時から自らの勉強を続けてきたのだと思う。「学歴」ではなく「学」の大切さを教えてくれた。このことは,本書でも渡部氏が「学歴は無用である」と力説している。


本書の大部分は,渡部氏の体験談や彼が見聞したり読んだりした古今東西の著名人から身近な人物までのエピソードを例として書かれている。これが実におもしろく,また例示として最適な引用である。だから,彼の提案が具体性を帯びて納得できるのだ。

健康・場所・時間・財産・人間関係など知的生活を支える環境的基盤について,英語などの語学力・読書法など知的生活を深化・発展させるためのツールについて書いてある。

特に「英語力」についての一文は,私が実感していることを述べている。現在の学校で教えている会話中心の英語ではダメだということだ。

中学校は教科担任制だから他教科の教科書はほとんど見ることもない。補習などで英語や数学を教えることもあるが,受験用の問題集やプリントを使うので教科書の内容をじっくりと読むことはなかった。

先日,あることで英語の教科書を見たのだが,その変わり様に些か驚いた。英語の授業のほとんどが会話中心とは見て知っていたが,その教科書のわかりにくさと文法を軽視した内容には愕然とした。
正直,中1の教科書に載っていた会話のフレーズを訳せなかった。あまりにも意訳してあるからだ。幾通りにも訳せるフレーズではあるが,はたして日常的に使うのだろうか,疑問も感じた。オーストラリア人のALTに聞くと,少ないとのこと。

中学生の学力低下は実感し続けている。この20年間,教科書内容と記述が簡略化するたびに,彼らの思考力と文章表現力は数段ずつ下がってきている。そして,それにともなって理解力が低下している。

教師に責任を求めるのは簡単だが,一概には言えないと思う。だが,教科書の内容は確かにひどい。改訂のたびに内容が薄っぺらになってきた。(だから,今回は大改訂なのだが)

渡部氏の嘆きは教師の実感である。
教師の誰が,教え子に現行の教科書程度の適当な学力をつけることで満足しているだろうか。限られた時間の中で,数十人もいる学力レベルのちがう生徒たちを相手に,少しでも学力を高めようとあらゆる工夫をしているのだ。教科書の補足だけでなく,独自のプリントや教材を用いて教え,個別な対応・多様な対応もしているのだ。


本書を一読して,いろいろと考えさせられた。確かに,これからの半生を考える時期がきたのかもしれない。
10年間の無為な日々を取り戻すには,10年間が必要だと思う。肉体的にも精神的にも改造の必要な時期だと思う。

本書の中程に時間についての考察がある。私が最も感銘を受け,納得した箇所でもある。哲学的な時間の概念に対して語源をもとにした時間の考え方を示し,「内なる時間」をとらえることの重要性を示唆してくれた。

若い頃の時間はゆっくりと流れる。しかし,年を重ねるとだんだんと速く流れるようになる。だから老化というのは,時間の流れを速く感じるようになることなのだ。
…年とともに時間の質が変わってくる。そしてシニアはこの質の変化にとまどう。あまりの速さについて行けず,結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。

これもまた当然なのだが,私のように1年のサイクルが変わることなく繰り返される教師は,時間の概念を忘れてしまう。学校という場所,授業内容と年間行事といった外的諸条件が変わらない以上,同じ「年」が同じように繰り返される。しかも相手の年齢は常に同じである。変化しても3年間である。
高校生や大学生,社会人となった教え子に,自分の加齢を気づかされる。

教師は職業柄,時間の概念に乏しいのかもしれない。麻痺してしまうと言った方が妥当かもしれない。
だから,自分の時間,将来を見据えた時間を考えるべきなのだと気づかされた。

知っていることが多いように思えたが,実は知っているだけで,その意味することがわかっていなかったことを教示されたのが,本書であった。

posted by 藤田孝志 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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